2016年6月28日 (火)

このブログについて

旅と観光研究室 溝口周道 の ブログです。

「旅と観光研究室」のホームページは削除したので、案内をこのブログ内に掲載します(工事中)。

※メールでの問合せは、下記アドレスからお願いします。

      問合せアドレス(打込み) → こちら

※返信は、別のアドレス(溝口周道のアドレス)から送信します。
※送信者のアドレス(の文字の並び)によっては、迷惑メール対策のブロックに引っかかる場合があります。返信がなかなかこない場合は、お手数ですが、ホームページにある電話・ファックスでご連絡ください。

※※※※※ このブログのタイトルについて ※※※※※

検索フレーズに「観光稿」が出ていることがあります。このブログを探してくれているのなら嬉しいことですが、元陳孚撰の『觀光稾(観光稿)』を探しているとしたら、余計な情報としてこのブログが出てくることになります。

その場合は、検索ワードに「元」とか「陳孚」を加えて検索してみてください。

もっとも、そうしてもあまり情報は得られないかもしれません。
原文を見たい方は、「漢籍 テキスト」で古典漢文のデータベースを検索し、そこから探すのが一つの方法です。また、直接文献を見たいのなら、私も見ましたが、国立国会図書館で見られます。国会図書館のホームページの一般検索で「和古書・漢籍」でタイトル「観光」で検索すると『元詩選・・・』という文献があり、そこに所収されています。

このブログのタイトルは、「観光」について書いていることと、「稿」という字には「詩文のしたがき」というような意味があることからつけたものです。ブログは、修正したり書き換えたりするので、刊本とは違い「稿」があっているのかな、という程度でつけました。
陳孚撰『觀光稾』から表現を借りて字体を現代のものに変えていますが、内容は無関係です。言うまでもないと思いますが、現在使っている「観光」という言葉と、古典に見られる「觀光」とは意味が異なるからです。

※※※※※ お知らせ ※※※※※

<<観光の語源に関連する記事>>

「観光」という言葉について、「観光」の語源について、問合せをいただくことがあります。
観光学の文献を見ても、インターネットで検索しても、まともな情報が得られないからです。

そのような状況は好ましくないので、2010年12月5日の日本観光研究学会第25回全国大会で発表しました(より詳しい内容のものもリンクしてあります)。発表論文集に掲載されたものの内容を下記 「観光」の語源について に掲載しています。その他の語源に関連する記事もあげておきます。

  「観光」の語源について

  「観光」の語源:『易経』 観卦 「観国之光」

  「観光」の語源に関連する記述に見られる問題点

  「觀」の意味

<<「観国之光」から現在につながる「観光」へ>>

  「観国之光」から現在につながる「観光」へ-それを捉える考え方

  「観国之光」と都見物

  喜賓会で用いられた「観光」

  『単騎遠征録』(明治27年)と『大阪新繁昌記』(明治29年)

  東京朝日新聞 明治30年9月5日 箱根温泉広告

  東京朝日新聞 明治36年12月24日 近県旅行の栞

  薄田泣菫と山田寅之助の想像力

  資料掲載:東京朝日新聞広告 6件

  資料掲載:戦前の京都市観光課の事業

  資料掲載:地方観光協会、保勝会 『観光事業の話』 昭和10年4月 国際観光局 より

  いくつかの戦前の資料から 「観光」

  「観光」を誌名に含む、戦前の観光の雑誌類

  「観光」と「アウトドアレクリエーション」

  Wikipediaの「観光」を見たら ・・・おかしなことが書いてあった。
  寺前秀一氏のいい加減な調査によるおかしな主張と同じ内容のものが書かれています。(2017.1.6現在)

<<その他の記事>>

  「観光」という言葉 こぼれ話

  不易流行

  適正収容力・地域容量       続:適正収容力・地域容量

  観光地の俗化           日本三景

  七里四方            人(牛)が生み出した自然の風景

  100選              書写山円教寺

  湯YOUパーク         鳥瞰図絵師 吉田初三郎

  平安貴族女性の物詣     生垣にみる地域性

  夏の庭             借景

  地域個性・地域らしさ      名物

  道の駅と日帰り温泉       道の駅とトイレ

  古代ローマの聖職者の旅行

  観光旅行の効果          観光のはじまり

  山村の危機管理          観光客向け料金

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2015年2月19日 (木)

「観国之光」から現在につながる「観光」へ-それを捉える考え方

『易経』の「観国之光」から「観光」という言葉が生まれ、そこから新しい使い方として現在の観光につながる使い方、言い換えると、転意による使い方が生まれてゆきます。

その背景、経緯を捉える基本的な考え方として次のようなものが上げられます。

一つ目は、語源「観国之光」の解釈にある特徴で、それが残っていくことです。

語源の「観国之光 利用賓于王 (国の光を観る もって王に賓たるによろし)」の意味を簡単にいえば、「国(地域)を観察して光輝ある様を見出したら、進んで王に仕えるのがよい」というようなことです。
そこには、観察する国(地域)への移動についてはなにも書かれていません。王は自国にいるかもしれないしそうでないかもしれないから、どこへ行くというような意味を含むことはありません。
次に、光輝ある様は、総合評価のようなもので、特定の対象だけをみて判断するものではないということです。このことは、地域内の移動は必然であることを表しています。このことは、比較的早い時期の用例の中で、「観光順序」とか「観光日程」とかいう表現で現れてきたのではないかと考えています。

「観光」の語の使い方が広がってゆく中でその影響は薄れてゆきますが、初期においてはその影響が大きいと思われます。
(ここには内容は書きませんが、現在の「観光」の語の使われ方にも多少残っているように思います。)

二つ目は、「新しい時代が、新しい使い方を生む」ということです。新しい時代の雰囲気が新しい言葉・表現を求める、といっていいかもしれません。観光に関わるものとしては、特に、
    1.旅行の自由化
    2.交通機関を使った旅行(鉄道、船)
というものが、新しい時代を感じさせる大きな要因だと思います。
そして、文章の扱いを能くする人、進取の気性に富む人、想像力に富む人、情報に敏感な人などが、「観光」を使い始め、使い方・意味を敷衍させてゆくのではないか、と考えます。

三つ目は、「国民の旅行の増加が、「観光」を使う機会を増やしてゆく」ということです。

観光は、休日、休暇その他の自由時間(余暇時間)の中で、日常の生活域を離れる旅行(短距離の小旅行を含む)という形で、ないしは旅行の中で行われるものですから、国民の旅行の動向が、「観光」の語を使う機会の増加、普及に大きく関係していると考えられます。この観点を欠いての考察は意味がないと思います。

「観光」という言葉の認知についていえば、影響を与えたものとして、まず明治40年代前半に来日した韓国、ロシア、アメリカからの観光団の新聞記事が考えられます。朝日新聞(大阪、東京)では、連日、時に大見出しで紙面を大きく割いて報道しています。影響は新聞読者層に限られますが、当時の朝日新聞の発行部数が30万部前後で、目を引くような掲載をしたものは、他の主要紙を加えてせいぜい100万部程度以下ではないかと推測されます。

大正の広重こと鳥瞰図絵師吉田初三郎は、大正10年の鉄道省の『鉄道旅行案内』のヒットで広く名を知られることとなりましたが、大正14年に大正名所図絵社を解散し、「観光社」を設立します。機関誌『観光(KWANKO)』、のちに『観光春秋』という雑誌の発行もしています。交通事業者のほか、宿泊事業者、社寺等からも依頼を受けていますので、関係者には「観光」という言葉が伝わっていったことと推測されます。

昭和5年に鉄道省の外局として国際観光局が設置されますが、これにより、組織、機関名を含め、「観光」が使いやすくなったと考えられます。しかしながら、すぐに多くに広がったわけではないので、各地への旅行者(来訪者)の増加で関心が高まったことや、周辺での使われ方などが関係しながら増えていったと推測されます。
それ以前に設置に至る経緯の中で、また、議会の建議の中などで「観光」と言う言葉が登場していますので、関係者、関心のある者たちに「観光」という言葉が浸透したものと推測されます。

昭和5年に京都市が観光課を設置し、翌年それまでの案内所を「京都市観光案内所」として再整備しますが、これは京都駅前に大きく「観光案内所」と掲げています。これは、京都を訪れる人のうち、少なく見ても年間数百万人以上の人が目にしていたと推測されますので、一般への「観光」の浸透については、これが大きな影響を与えたのではないかと思います。

「観光」の使用は、旅行者の増加に伴い徐々に増えてきていますので、そこに上記のような事柄が重なってきたわけです。

「観光」の語は、使い方が示されたわけではないし、言わば新しい言葉として使われていくわけですから、その使い方には個人差を伴いながら、また上記の「三つ目」のところにあげた事柄などの影響を受けながら、現在のような意味での使われ方に近づいていったと考えられます。

例えば、現在は「視察」と「観光」は別ですが、初期には視察に「観光」が用いられていました。視察と観光を区別するような記述が現れる場面はあまりないと思われますが、確認できているものでは、明治30年代に入ると「視察」と「観光」を区別する記述がみられるようになります。が、明治43年の『観光私記』、これは、実業家の視察団「赴清観光団」の記録ですが、このように視察で「観光」を使用する人も残っていたわけです。、

内容はここには書きませんが、私が把握している史料(資料)から判断すると、概ね、戦前には、現在の観光につながる基本的な使い方が成立したといえます。

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以前は、国会図書館の文献はタイトルの検索程度しかできませんでしたが、平成14年から「近代デジタルライブラリー」の提供が始まり、タイトルだけでなく目次の項目についても検索されるようになりました。また、提供される蔵書数もかなり増え、調査に関係する多くの文献を見出すことができるようになりました。

現時点では、「観光」の語の使われ方を調べるには、「近代デジタルライブラリー」で「観光」を検索するのは基本的な作業です(これをせずにあれこれいっている人もいるようですが話になりません)。

ほかにも「観光」の語が使われている資料の存在を確認する方法は色々あり、それらの内容を確認する作業を、手間暇を要するもの、費用を要するものなどあるので、どこまでやるかは大きな問題ですが、ある程度の全体像の見通しがつけられるくらいにはたどり着くのではないかと思っています。

当時の文献を読んでいるなかで、見出された「観光」の語もいくつかあります。そのようなものも加えてどこまで進むか、といところです。

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2015年1月21日 (水)

資料掲載:戦前の京都市観光課の事業

『京都市政史 上』 昭和17年より

 観光事業は国策であり、その目的も政府に国際観光局設置以来度々宣明せられてゐるのであるから、地方自治体としてもその趣旨に基づき事業の遂行に当つてゐる訳であるが、元来国家の行ふ観光事業と、地方自治体の行ふ観光事業との間には多少事業の範囲を異にした点があり、更に又本市はその都市性が斯うした観光都市であるため、自づと事業の主力を異にした處が多い。
 観光事業は之を区分して左記の通り誘致事業、保勝事業、施設事業、助長事業等に分類することが出来るが、その根柢をなしてゐるものは、この地方自治体としての観光事業の範囲と京都の特異性とである。
即ち
 一、外国へ対しての直接宣伝は専ら国家機関が之に当り、地方機関は原則として単独には之を 行はないのが現状である。
 二、従って地方機関としては国家機関により誘致され、既に本邦に渡来したる外人に対し、之をその地方に誘致し、十分なる案内斡旋に努める。
 三、本市は、皇室と最も関係の深い都市であり、又我国古代よりの文化が最もよく保存されてゐる都市である。依て現存の聖蹟史蹟を顕揚し、国粋文化を保存して、広く国民に対し国体明徴、国民精神作興等の精神教化の資材たらしむべく、事業の主点を此處においている。
 四、既述の通り地方自治体として観光事業を創めたのは我国に於ては本市が最初であり、又昭和六年結成された日本観光地連合会が昭和一一年日本観光連盟にその事業を継承されるまで京都市長その会長に推されてゐたため、事業の遂行に当たつても常に全国各地への影響を考慮してゐる。

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具体的な事業の内容は、この『京都市政史 上』や当時の『京都市観光事業要覧』に書かれていますが、「その根柢をなしてゐるものは、この地方自治体としての観光事業の範囲と京都の特異性とである。」とあるように、観光事業は京都市独自のものです。
誘致事業は、上記三に「事業の主点を此處においている」ように国内の観光客が主で、外国人は入国して国内にいる人が対象となっています。例えば、ポスターの掲出は、全国的行い、著名祭事については、近畿地方を主に、中部、中国地方の一部に掲出していたとのことです。

具体的な事業内容は、記載内容が多量なので、掲載は控えます。以下は先の記事の中に掲載したものです。

昭和5年5月に京都市に観光課が設置されました(京都日出新聞5月23日付にも掲載されています)。

その分掌事務は   

一、内外観光客誘致宣伝に関する事項
一、観光客の案内・接遇に関する事項
一、市設観光案内所に関する事項
一、観光施設の充実改善に関する事項
一、観光に関係ある諸業の助長改善に関する事項
一、観光事務の調査に関する事項

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※京都市観光課の事業についての寺前氏のコメントは「「内外」で観光宣伝を行うことの目的は、海外はもとより、日本国内、特に東京で外国人及び外国人ガイドに宣伝することを考えているのでしょう。
法令を作成する仕事にも携わってきましたが、頂いた資料を読む限り、「内外」が第1項にしかついていませんから「観光」は国境を越える移動の意味で使用しているのでしょう。それ以外の項では裸で使っていますが、観光に国内移動の意味が含まれるのであれば、第1項で「内外」をつける必要はないということになり、国の場合は内閣法制局審査が通過しないと思われます。」というものでした。

後半の法的な解釈も含めて、奇異な説明です。後半の説明が論理的におかしいことは、法律の専門家でなくても、論理的な思考ができればわかります。

※「法令を作成する仕事にも携わってきました」とか「日本観光協会の理事をしていました」とかいう言葉は、素人を煙に巻くためのハッタリとしては効果があるかもしれませんが、研究においては全く意味がありません。具体的な情報(資料・史料)とそれに基づく論理的な展開を示すことでしか、それらの経験は意味を持ちません。

※「柳田国男がこういっている」というような記述も、彼がどのような情報(資料・史料)に基づいて言っているのか、それを検証してから使うべき引用です。彼の身近な情報を別にすれば、現在の方がより多くの情報を得ることが出来るといえるでしょう。

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2015年1月18日 (日)

資料掲載:地方観光協会、保勝会 『観光事業の話』 昭和10年4月 国際観光局 より

資料 『観光事業の話』 昭和10年4月 国際観光局

八、地方観光協会、保勝会

 近年殊に昭和五年国際観光局が創設されて以来、国民一般が本事業に注目し、進んで地方観光協会又は保勝会等を設立さるるに至りましたことは喜ぶべきことであります。現在全国を通じて四百に達する盛況であることは前述の通りでありまして、何れも地方に於ける観光事業の発達に努力致して居ります。それがため近来次第にその業績が挙り、各地夫々の色と嗅ひが出て参り、各々特長を発揮するやうになりましたが、之は観光事業上洵に結構なことで将来も益々そういふ風に進んで参るべきであると思ふのであります。尚之等観光機関の統制に就ては目下研究中であります。

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上記の記載内容をみると、地方観光協会等の取組みはそれぞれが独自に行っていたものだということがわかります。

地方自治体の観光課等の部署とともに、連携機関(統制機関ではない)として日本観光地連合会が設立されましたが、それも地方独自の取組みで、後(昭和11年)に、統制機関として設立される日本観光連盟とは、直接の関連はない組織であったことがわかります。、

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※地方観光協会等についての寺前氏のコメントは「私も実態として各地の協会が今日的意味での国内観光を無理に排除しているとは思っておりません。私はその後継団体の日本観光協会の理事長をさせてもらっていましたので、経緯はある程度頭に入っているつもりです。しかしながら、国際観光局が設立され、各地の全国に観光協会が設置400を超えたときに、中央組織を設置したのは、各地の外客誘致がバラバラで、外人が写真の撮る場合に、有料、無料で気分を害するのではないか、更にはスパイ扱いのところも出てきたことがあります。従って協会連合会を作り国際観光局から補助金(当然国際観光のため)を支給することとして整理しました。従って、京都観光協会をはじめ各地の観光協会は外客のために存在したと思われます。その協会が日本人に対しても事実上便宜を図ることはあったと思います。この地方観光協会の存在が国内観光の意味を強くしていったことは十分に想像できますので、戦後復興期以降に観光が国内観光の意味でも使用させることになったのではと思っています。」というものでした。(下線:溝口による)

※いったい何が頭に入っていたのでしょうね。思い込みかな。統制機関として設置された日本観光連盟と日本観光地連合会の活動とは直接の関係はありません。裏付けのないいい加減なコメントです。

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2014年9月18日 (木)

Wikipediaの「観光」を見たら

久しぶりにWikipediaの「観光」を見たら、以前とは中身が変わっていましたが、相変わらずというか、新手のというか、おかしな説明が堂々と記載されていました。(2014.9.8)

(2014.9.18確認->2015.8.8確認(そのまま)の掲載から)

「国会、政府機関の審議会等における位置づけ」 の項

「用語としての観光は、朝日新聞データベース「聞蔵」による検索結果によれば、当初は固有名詞(観光丸、観光社、観光寺等)に使用されるケースしかない。普通名詞として使用された初めてのケースは、1893年10月15日に日本人軍人による海外軍事施設視察に使用された「駐馬観光」である。その後日本人軍人から外国人軍人、軍人以外の者の海外視察等へと拡大してゆき、最終的には内外の普通人の視察にも使用されるようになっていったが、いずれも国際にかかわるものである点ではかわりはなかった。」

「概念の明確化が求められる法令において観光が使用されたのは、1930年勅令83号国際観光局官制がはじめてである。朝日新聞データベースから推測されるように、世間では観光が国際にかかわるものに限定されて使用されていた・・・。然しこの時に観光に国際をつけたが故に国内観光の用語の発生する余地ができたとも考えられる。」

「観光が国内観光、国際観光を区別しないで使用されるようになったのは、戦後連合国の占領政策が終了する時期、つまり日本人の国内観光が活発化する頃からである。」

※以下抜粋(大半削除)して掲載

以上の記述の根本的な問題

 朝日新聞データベース「聞蔵」による検索結果だけで短絡的にものを言っていること

人流・観光研究所のホームページに掲載されている寺前秀一氏による資料に同様の内容のものがあるので、それが元になっているのかもしれない。(「帝京平成大学紀要」に書かれているものは同じ内容でした。)

[私が問題としてあげたこと]

国としては、外国人観光客の誘致への関心が高いので国際観光に関する「観光」の語の使用が相対的に多くなっていると思われますが、例えば大正期の建議の中に「内外観光者」、「内外人士ノ遊覧、観光ノ目的物」などの表現があるように、国際観光に限定されて「観光」が使われていたわけではありません。国内の観光についての使用は、明治30年代のものが確認されています。

以下(2015.8.8)変更

この問題を指摘したところ寺前秀一氏からコメントがつきやりとりをしました。

そこで判明したことは、次の点です。

●「朝日新聞データベース「聞蔵」による検索結果」といっているが、寺前秀一氏は、検索されたものの内容をきちんと把握していない(読んでいない)

●「あくまで語源の影響を受けて「国」境を超える意味で使用することからはじまっていると仮説を立て主張している」といっているが、語源からは「「国」境を超える意味」は出てこないことを理解していない(この指摘をしたら論点をすりかえようとするコメントをしてきました)

また、やりとりの中で、「もともとの論点は「世間では観光が国際にかかわるものに限定されて使用されていた」という点を「おかしい」とするもの」であり、国内の観光用例をいくつも示し、論点を戻そうとしましたが、そこを避けるかのように話をずらし論点をすりかえようとしてきました。

朝日新聞の記事だけをみても、国内の観光に使用している例がいくつか確認されており、「観光が国際にかかわるものに限定されて使用されていた」という説を立てること自体そもそもおかしなものです。

※私が使っていない表現なのに、「内外無差別」と言っているように書いてきたことは、失礼な行為だと感じています。「アプリオリに限定」とい言ってきたことも同様です。なぜ「差別」という表現がでてくるのか。おかしなことです。(「差別」という概念を持ちだしているのは寺前氏です。)

さらに、観光が国際に限定されていたという主張に合わせようと、数々のこじつけを、うんざりしあきれるほど並べてきました(こじつけの内容は別の記事の中に載せておきました)。また、量的にどうとかと、非論理的な主張をして自分の主張を擁護しようとしています。

基礎的な調査・検証を怠り、論理性を欠き、付会の説に腐心する様は、凡そ研究者の姿勢とはかけ離れたものです。

加えて、先般、「JAPAN NOW 観光情報協会」というところで「観光」の語に関する講演をしましたが、明治以降の話に関して。寺前氏は、文脈や紹介した多くの用例等に触れることなく、単にいくつかの用例等をあげ、私が話していない説明をつけています。その説明について批判をしている部分もあり、何ともいいようがありません。改めて相手をするのが馬鹿らしく思えました。

以上から、寺前秀一氏は、今後も目先をころころ変えたりおかしな主張をしたりしてくることは想像に難くないし、信頼性に乏しく、研究者としての姿勢を欠き、やりとりに値しないと判断しました。

ここを読んで意味のあることは、事例(「観光」の用例の資料)だけだと思います。したがって、意味のないものに紙幅(画面)を割くことはやめることにしました。事例は別の記事に掲載します。

どういう問題がありどう判断したかのみをここに残し、他は削除することとしました。

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2012年10月 2日 (火)

論文掲載:現在使われている「観光」の語の語源について

タイトルにある論文を「旅と観光研究室」のHPに掲載しました。

  こちら → 現在使われている「観光」の語の語源について

この論文は、既に掲載している‘「観光」の語源について’の元になっているもので、8頁に調整してまとめたものです。掲載したものの内容は、投稿したものそのままです。

また、件の日本観光研究学会に投稿した論文で、まともな学会とは思えない査読結果を見て、投稿を取り下げ、学会を退会するきっかけとなった論文でもあります。それについては、日本観光研究学会退会顛末に書いてあります。

論文の題名については、論旨をより正確に表現するために、「現在使われている」という表現を付け加えています。

論文に書いたまとめとは、表現が異なりますが、要点は次のとおりです。

○現在使われている「観光」の語は、江戸時代に幕府が朱子学を奨励したこと、朱子学が「観国之光」に明確な解釈を与えたことを背景に『易経』の「観国之光」に注目し関心を持つ人が増え、それを表す「観光」の語が使われ広がり始めたと考えられる。

○『易経』の「観国之光」を直接「観光」と表現したものは、朱子『語類』の中に確認され、江戸時代の朱子学の基礎を築いた林羅山ほかが見ていたことが確認され、寛文八年(1668)跋の山形屋からの刊本があることから、「観光」の語は中国で生まれたものの受容とみなすことが適当と考えられる。

○朱子学における「観国之光」の解釈は、『程伝』の「觀見國之盛徳光輝也」であり、この解釈が江戸時代を通じて採られている。したがって、現在使われている「観光」の語の語源の意味を示す場合は、この解釈を紹介することが適切である。

 ※朱子学派以外の人が著した『易経』の注釈書においても、『程伝』にある解釈が紹介されている。

○「観光」の語自体は、江戸時代より前に中国からわが国に入ってきているが、その使用が、江戸時代に「観光」の語が使われ広がり始めたことに影響を与えた形跡は確認されていない。

○四書五経等の古典の中の言葉に注目してそれを使おうとしたとき、まず使われるのが「名前」で、よく知られているのは藩校の名前で、論語や易経からとった言葉が多く使われている。「観光」は「観光亭」、「観光院」、幕末の「観光丸」や「観光館」という名前に使われている。「観光集」等の著書の題名もある。

○古典の言葉が、行為・行動を表現したり、新しい概念を表現したりするもので、一般的な使い道がある場合は、普及する可能性がある。「観光」はその一つだったわけで、もとの「観国之光」、「観国光」という表現とともに地域(国)を観察する行為として使われ、幕末には、秋月の西国優秀列藩の訪問や、福沢の西欧訪問という、国内から海外へ、旅行を伴う行動の中で使われるようになり、言葉の普及とともに使われる範囲が広がっていった。

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2012年7月12日 (木)

日本観光研究学会 退会顛末

昨年(2011年)9月、日本観光研究学会の機関誌『観光研究』に、

      「現在使われている「観光」の語の語源について

という論文を投稿しました。このブログに掲載されている、「「観光」の語源について」の元になっている論文です。その査読結果が、なぜか8ヶ月も経ってから送られてきました(2012.6.3着)。

査読結果を読んで、その内容にあきれて笑ってしまったのと、査読審査料1万円も払っているのに、論文をきちんと読まない見識のない人に査読をさせている学会に腹が立ちました。
論文をきちんと読まない査読は、投稿者を馬鹿にしています。これで怒らなければどうかしています。

以前の投稿論文での査読で、非論理的な指摘があり、それに異議を申し立てるという面倒くさい目にあっていることに加え、今回は話にならないほどひどいということで、今後、学会にいて会費を払い続けるのもばかばかしいので、すぐに次のメールを編集委員会に送り、学会事務局宛に退会のメールを送りました。

昨年の9月後半には査読にまわしたことを編集委員会に確認していましたので、これが2、3ヶ月程度で結果が戻ってきたのであれば、きちんと読む人に査読させてくださいと文句をだしたでしょうが、なぜか8ヶ月もたってのことなので、時間が経つことの不利益もあるので、どうしようもないと思ったわけです。

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日本観光研究学会編集委員会 御中

査読結果を受領しましたが、私には理解不能なため、投稿を取り下げます。

特に、論旨と違うことまで書かれている点は、何なのだろうと不思議に思います。
若干の補足修正は必要かもしれませんが、大半についての反論、説明にエネルギー
を費やすことに意味を見いだせません。

追って、学会事務局に通知し退会します。

溝口周道
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この件について、論文と査読内容を掲載して問題を明らかにしてゆきたいと思います。
また、その解説を通じて、私の考え方や、「観光」の語源に関連する補足などを行っていこうと思います。[あくまでも観光学という分野での研究における私の考えです。]
(2012.6.18)

何日か前、検索フレーズにいつもと違うのが並んでいたので調べてみたら、「これかな」と思われるページが出てきました。それは別項に掲載しています。
内容はここに書いた査読と似たようなレベルのおかしなものでした(狢連かな)。
話をつくっていちゃもんをつける、よく似ています。
その人が何らかの形で査読に関わっていた可能性が見いだされました。
事実だとすれば、あきれるしかありませんが、私の論文は、酷い扱いを受けたものだと改めて認識させられました。
それで、退会顛末の記事は、しばらくしたら削除しようと思っていましたが、白紙に戻しました。
(2012.10.12付記改)

※※※※※※※※※※※※※ ま え お き ※※※※※※※※※※※※※

私の仕事は観光地づくりのお手伝いで、プランニングやコンサルティング、関連する調査研究を行っています。観光の振興と相まって、観光(旅行)により人々の生活や心が豊かになり、文化レベルが向上することが大切で、それに伴い観光の社会的な位置づけが向上し、社会の認知のレベルが上がることが、私の仕事のやりがいややりやすさとして跳ね返ってきます。
そのための重要な事柄の一つとして、観光の歴史の研究を行っています。

観光の語源の研究自体は、そのためにはそれほど重要だとは思っていませんが、観光の専門家である一部の大学の先生方を始めとして、多くといってもいいくらいの方が、観光の語源について調べもしないでいい加減なことを書いたりしゃべったりしていることは、観光の社会的地位の向上にとってマイナスとなり、私を含めた観光の専門家の評価にもマイナスに作用するおそれがあるので、それを正さなければいけないと思って始めたわけです。

「「観光」の語源について」論文を発表したことで、その後インターネット上からは、、かなりの部分のおかしな説が消えたことは、大きな成果だと思っています。ただし、すでに出版された文献はそのままですので、この問題についてはしばらくの間アピールを続ける必要があるだろうと思っています。

語源の研究自体は、これまでに培った情報収集能力及び分析能力、ものの見方・考え方(歴史観を含む)をベースに応用しているだけですので、それなりの物理的な時間はかかりますが、研究の苦労はそれほど大したことではありません。ただ、大学の教員等の研究者ではなく民間の一研究者なので、資料があるとわかっていても簡単には見ることができない場合があります。それをどうするか、という点が苦労といえる点かもしれません。それでも、これまでは、情報収集能力を駆使して乗り越えることができました。

例えば、小宮山楓軒の『観光詞翰』という文献は、静嘉堂文庫蔵なのですが、どのようにすれば見られうのかよくわかりませんでした。そこで、水戸藩の方なので、もしかしたら茨城県か水戸市の図書館にあるのではないかと考え探したら、茨城県立図書館にコピーがあってそれを見ることができました。
(2012.6.23)

● 査 読 ●

私自身いくつか査読をしたことがあります。その際、次のような考え方で行っています。
観光の学会なので、観光に関係する論文なのか、という問題が出てきますが、厳密な線引きは難しいですから、曖昧なときはそこは後回しにします。

最初にチェックするのは、論理的に誤りがないか、データ処理に誤りがないかという点です。次に、既往の研究との関係で、既に研究されているものであったり、あるいはそれを踏まえていないものであったりするものをチェックします。言い換えると、新しい知見が得られているかどうかということにもなります。

この段階で大きな問題があれば基本的には不可とします。その時は、観光に関するものかどうかの判断は必要なくなります。経験からいうと、観光研究かどうか疑問を感じるものはここで総て落ちてしまいました。

おかしいと思ったところは、読み返し、必要があれば調べて確認します。統計を扱っていれば、計算し直しておかしいことを確認します。

以上の基本的なところをクリアしていて、特に修正を求める箇所等がなければそのまま可となるわけですが、残念ながらそういう論文には一編もあたっていません。

修正を求める場合、例えば説明の補足を求める場合は、論拠をより明確にしたり、わかりやすい表現を求めたりすることがあります。そのほかでは、資料の取り扱いにおける軽微な誤りなどもあります。年次の表記など数字の部分は誤記しやすいし、そもそも引用した資料が誤植だったというような場合もないわけではありません。内心は「しっかり見直してから提出しろよ」と思ったりするわけですが。そして誤字も修正させますが、万が一自分の知らない用例ということもあるので、難しい場合は辞書で調べることもあります。

大事なのは、新しい知見が得られたり観光研究の発展に寄与したりするなど、価値のある論文かどうかということだと思っています。論理的に問題がなくて、基本的な論述、表記はしっかりしていなければいけませんが、いたずらに些末なことがらにこだわるようなことはしません。そのことによって何がプラスになるかというと、ほとんどないからです。

◇査読者のポジション

査読される論文の著者は、原則としてわからないようになっていますので、立場や地位にかかわらず、誰でも同じように査読を受けます。実際には、参考・引用文献などからわかる場合もありますし、大会で発表した論文が関係していればわかります。
それとは別に査読を差配する事務局に関係していれば、当然わかってしまいます。その関係でちょっとずるいことが行われたことがある、という噂を耳にしたこともあります。

学生のようなまだ駆け出しの研究者等を除いて、それなりの研究者が査読者をつとめるわけですので、基本的には、研究者も査読者も、対等な関係にあるといっていいと思います。

しかしながら、中には、偉いと思っているのか評論家みたいに思っているのかわかりませんが、勘違いしている人がいます。

今回の件の中で、「労作であり」、「力作であるが」といういようなコメントがありましたが、査読としては全く意味のない理解に苦しむコメントであり、付け加えるなら私としては、この程度の論文でそんな風に評価されるような低能ではない、と自負しています。ひとりよがりの失礼なコメントです。(そもそもこの査読者もどきは論文をきちんと読んでいないわけですから、それで「労作」とか「力作」とかいうのもふざけた話です。)
また「人文科学を軽視しがちな観光学の諸研究に」というコメントは、査読として意味のないコメントであることは明かですし、そもそもどこでそういわれているのか、なんで人文科学云々という捉え方をしなければならないのか、これも理解に苦しむところです。評論家もどきのコメントには、何を勘違いしているのだろうと思います。大切なのは、論文として必要なことを満たしているかどうかだけです。

◇迅速性

査読が迅速に行われないということは、学会の質・レベルの低さの現れといえます。その一つは、まともに査読が行われる体制がない、査読を行える見識のある人材が十分でない、ということです。

次に、研究の進展の妨げになることです。それは学会にとってもマイナスであり、査読を受ける研究者にとっても問題です。また、もし公表される前に別のところで似たような論文が発表されたとしたらどうするのでしょう。

今回の件でいうと、昨年(2011)9月に投稿して,その際手続きに齟齬があったので確認したら、投稿手続きはすんで査読にまわしたとのことでした。それが8ヶ月もたって修正の連絡があり、査読結果が送られてきました。そのままやりとりをしたとして、掲載されるのはだいぶ先になると予想され、その時点で馬鹿らしくなってきた、というのが本音です。

◇公平性・論理性

公平性というのは、査読者の個人的な主張、個人的な研究の視点・観点等にもとづいて査読・コメントしてはいけないということです。私の経験からいうと、そのようなコメントは論理性を欠いているように感じます。

以前「「夏はいかにも涼しきやう」の伝統と演出」という論文を投稿したときに、「文学作品を扱った論文は研究の位置づけがあいまいになる」というようなコメントをされました。
まったく非論理的なコメントです。文学作品を扱うことと研究の位置づけは関係がありません。また、研究の位置づけといっても、既に何らかの研究がなされているテーマに沿った論文であれば研究の位置づけをはっきりさせなければいけませんが、そうでなければ、研究の位置づけは、観光研究であるならば、目的と内容がずれていない限り問題はないはずです。

おかしなコメントなので、当然、異議を申し立てたわけですが、それに対して査読の責任者から、「研究者にはそれぞれの’観’がある」という説明があり、私の論文の研究の位置づけが不十分であるかのようなニュアンスのコメントありました。しかしながら、具体的な指摘はないので、何をいっているかわかりませんでした。

この査読の責任者は、以前私が学会の全国大会で「観光の用例」について発表したときに、「そのようなことはもうわかっている。教えてあげる。」というようなコメントして肝腎なことは何も言わなかったので、「この人は何を言ってるんだ?」とおかしく思った人でもあります。

そもそも、「それぞれの’観’がある」ということを査読に認めていることが間違いでしょう。この人は、自分の’観’で、観光の語源について自らの著書に誤りや根拠のないことを並べ立てた人でもあります。

そのときは異議が通り、掲載となったのでそのままにしてしまいましたが、今思うと、査読のあり方について申し立てをすべきだった、と感じます。
実際、現在も、査読の体制や査読の責任者、査読結果についての異議の申し立て先などは明示されておらず、それだけでも大きな問題だと思います。

(2012.7.9)

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2009年7月 9日 (木)

「観光」の語源:『易経』 観卦 「観国之光」 

2010年10月22日お知らせ

「観光」の語源について こちらもごらんください   こちら

2014年3月21日お知らせ

こちらに少し詳しいものを掲載しています。(pdf)

     → 現在使われている「観光」の語の語源について

2010年10月20日修正 2011年1月10日再修正

※※※「観光」という言葉 1~4 に補足修正して、一つにまとめました※※※
      (今後書き加えるかもしれませんが、ひとまず掲載します)

<<「観光」の語源>>

 「観光」という言葉は、中国の古典の『易経(周易)』の中の観卦の爻辞の一つ「六四 観国之光 利用賓于王(国の光を観る もって王に賓たるに利し[よろし])」の「観国之光」から生まれました。

 「観光」を『易経』からとったということがわかる記述している史料はあまりありませんが、17世紀後半の史料には、そのことが記述されています。また、そのように記述されていなくても、記述された内容から判断して、『易経』からとったと判断して間違いないと思われるものも少なくありません。したがって、「観光」の語源は、『易経』にある「観国之光」ということになります(前記、「観光」の語源について 参照)。

 『易経』の観卦の爻辞には次の六つ(六爻)があります。頭の部分にある「六、九」は陰陽を表していて、「初、二、三、四、五、上」は位を表しています。「観光」の語源は4番目の爻辞です(書き下し文については別の読み方の表記もあるようです)。

  初六 童観 小人无咎 君子吝
  六二 闚観 利女貞
  六三 観我生進退
  六四 観国之光 利用賓于王 (国の光を観る もって王に賓たるによろし)
  九五 観我生 君子无咎
  上九 観其生 君子无咎

 『易経』は、易の本文と十翼(上彖伝、下彖伝、上象伝、下象伝、上繋辞伝、下繋辞伝、文言伝、説卦伝、序卦伝、雑卦伝)と呼ばれる解説書(伝)で構成されています。その中の「上象伝」に観卦の各爻辞に対応した箇所があります。

「上象伝」より

  初六童觀 小人道也
  闚觀、女貞 亦可醜也
  觀我生進退 未失道也
  觀國之光 尙賓也 (国の光を観るとは、賓たらんことを尚(こひねがふ)なり)
  觀我生 觀民也
  觀其生 志未平也

現在出版されている易経の解説書の多くは、編集で、象伝を本文の該当する箇所に挟み込んでいます。 

<<「観国之光」(国の光を観る)とは>>

 『易経』について解説した本はたくさんあるのでそれを読めば「観国之光 利用賓于王」の意味はわかると思います。ただ、1冊だけだと説明が不十分な場合や、あるいは特異な解説に当たる可能性もあるので、数冊読んでみることをお薦めします。その際、朱子その他の中国の学者の注釈が取り上げられているものがあると、より理解できると思います。私は10冊ほど読んで見ましたが、何冊か見れば専門家でなくても理解できると思います。
 特に「観光」の語源という意味では、現在使われている「観光」の語源という意味では、江戸時代における解釈、つまり「程朱学(朱子学)」における解釈を取り上げるのが妥当だと思われます。

 朱子学(程伝)の解釈を紹介・解説しているものは、本田済が書いています。手軽なものである朝日文庫にある説明を上げておきます。

◆本田済:『中国古典選一 易(上)』、朝日文庫、1978

「六四は最も九五に接近している。九五は陽剛で中正、徳高き王者である。六四は、王者の徳の輝きを身近に観ることができる。君の光を観るといわずに、国の光を観るというのは、一国の風俗の美を観ることで、その君の徳は最もよく察知できるからである(程氏)。・・・六四は従順な性格、仕えるにふさわしい(程氏)。[象伝]士たるもの輝くばかりに徳盛んな国を見ては、その君に仕えることを願わずにはいられない。」

※『程傳』、あるいは「程氏」とは、北宋の「程頤(ていい)」が著した『周易程氏伝』(程頤が伊川先生と称されたことから『伊川易伝』ともいう)のこと。日本では「朱子学」ということもありますが正確には「程朱学」で、程頤を朱熹(朱子)は先駆者と位置づけています。『易』の解釈について、朱熹は、まず自分の『周易本義』を読むことを進め、より深い意味については『程傳』を読むようにすすめています。

※朱子学では、王道、つまり、「徳のある者(王)が国を治める」ことを正しい道としています。それで「国の盛徳光輝を観見する」ということになるわけです。「武力により国を支配する」覇道とは異なります。以前、不注意に「その国の威光を観察する」(『大漢語林』)という解説を載せていましたが、「威光」という表現は「徳の現れ」を表す言葉としては適切でないので削除しました。

『程傳』の原文を載せておきます。書き下し文は、本田済『易経講座』(明徳出版社)より。

觀國之光利用賓于王

觀莫明於近五以剛陽中正居尊位聖賢之君也 四切近之觀見其道故云觀國之光觀見國之盛徳光輝也 不指君之身而云國者在人君而言豈止觀其行一身乎 當觀天下之政化則人君之道徳可見矣 四雖陰柔而巽躰居正切近於五觀見而能順従者也 利用賓于王夫聖明在上則懐抱才徳之人皆願進於朝廷輔戴之以康済天下 四既觀見人君之徳国家之治光華盛美所宜賓于王朝效其智力上輔於君以施澤天下故云利用賓于王也 古者有賢徳之人則人君賓禮之故士之仕進於王朝則謂之賓

観は近きより明らかなるは莫し。五は剛陽中正を以て尊位に居る。聖賢の君なり。四は切に之に近し。其の道を観見す。故に云う国の光を観ると。国の盛徳光輝を観見するなり。君の身を指さずして、国と云うは、人君に在りて言えば、豈に止に其の一身に行うを観んや。当に天下の政化を観るべし。則ち人君の道徳見る可し。四は陰柔と雖も、巽体、正に居る。切に五に近し。観見して能く順従する者なり。用て王に賓たるに利あり。夫れ聖明、上に在れば、則ち才徳を懐抱するの人、皆な朝廷に進み、之を輔戴し、以て天下を康済せんと願う。四は既に人君の徳・国家の治の光華盛美なるを観見す。宜しく王朝に賓し、其の智力を效し、上は君を輔け、、以て沢を天下に施すべし。故に云う用て王に賓たるに利ありと。古者、賢徳有るの人は、則ち人君之を賓礼す。故に士の王朝に仕進すれば、則ち之を賓と謂う。

象曰觀國之光尚賓也

君子懐負才業志在乎兼善天下然有巻懐自守者盖時无明君莫能用其道不徳巳也豈君子之志哉故孟子曰中天下而立定四海之民君子樂之既觀見國之盛徳光華古人所謂非常之遇也所以志願登進王朝以行其道故云觀國之光尚賓也 尚謂志尚 其志意願慕賓于王朝也

君子、才業を懐負し志兼ねて天下を善くするに在り。然れども巻懐自ら守る者有り。盖し時に明君无く、能く其の道を用うるもの莫し。むを徳ざるなり。豈に君子の志ならんや。故に孟子曰く「天下に中して立ち、四海の民を定む。君子これを樂しむ」と。既に国の盛徳光華観見す。古人の所謂非常の遇なり。所以に志王朝に登進して以て其の道を行わんと願う。故に云う「国の光を観る。賓たらんと尚うなり。「尚」とは志尚するを謂う。其の志意王朝に賓たるを願い慕うなり。

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2009年5月19日 (火)

「観光」の語源に関連する記述に見られる問題点

※「観光」という言葉 5 ~観光丸にこだわることの誤り~ を書き換えました。
見ていたら長い記事が増えてしまいました。徐々に整理してゆきたいと思います。

2012年7月17日修正

「観光」の語源に関連する記述(文献、報告種類、講演録等)に見られる問題点にはつぎのようなものがあります。

誤:「観光」という言葉は、易経の「観国之光」から日本でつくられた言葉である

※これは明らかな間違いです。中国で「観光」という言葉が生まれ、日本に入ってきています。

誤:わが国で最初に「観光」という言葉が使われたのは「観光丸」である

※これは明らかな間違いです。
また、「観光」と言う言葉の歴史において、「観光丸」は用例の一つにすぎず、特別な意味を持つものではありません。意図を示さずに観光丸にこだわった記述をすることには問題があります。

誤:観光丸と名付けたのは永井玄蕃頭である

※永井玄蕃頭が命名したとする史料はみつかっていません。命名に関する史料から見ても永井玄蕃頭が命名したとは考えられません。

誤:「観国之光」は「観」には「しめす」の意味がある
誤:観光丸の「観光」は「光をしめす」、「国威発揚」の意味で用いられた

※この説には根拠がありません。
「観国之光」の「観」を「しめす」とする解釈は、近代以降日本で作られたもので、特に昭和5年に国際観光局が設置された際の説明から拡がったものと考えられます。江戸幕府は朱子学を奨励し、寛政異学の禁(1790)で朱子学を正学としています。幕府の軍艦ですから、観光は、当然、朱子学の解釈によると考えるのが妥当です。朱子の説明では、「観国之光」の「観」は、「しめす」ではなく「みる」です。
軍艦だから「光をしめす」、「国威発揚」という意味で使った、というのは、あまりにも単純な見方です。それなら、咸臨丸の「咸臨」はどういう意味か、ということになります。「国威発揚」とはかけ離れた名前です。「光をしめす」とする理由として、「観兵式」や「観艦式」をあげる人がいますが。これは見識がないとしかいいようがありません。観艦式の最初は観兵式の中で行われているので観兵式に絞って話します。「陸軍礼式」を見るまでもないとは思いますが、「軍隊を集合し整飾して観閲に供する式」を観兵式といいいます。これは、天皇や皇族などが観閲するわけで、天皇等に対して「しめす」などとはいいません。そもそも「光をしめす」という言い方が、江戸時代以前に自然に使われる表現だったかどうか。江戸時代以前の文献を多数読んでいますが、これまで「光をしめす」という表現は見たことがありません。

  ※「観兵」=「兵をしめす」という言い方はあります。『春秋左氏伝』に出ています。

誤:「観光」は、秦鼎の校本『春秋左氏伝』の注釈から広まったのではないか

※この説には根拠がありません。

誤:「国の光を観る」は、「為政者が民の暮らしを観る」という意味

※これは「位」の解釈を間違えています。「観国之光」は四番目の位で、これは為政者(王)の位ではありません。

<<「観国之光」の「観」は「しめす」ではない(朱子ほかの説明による)>>

 ところで、「国の光をしめ(観)す」という説明がありますが、「観国之光」の「観」の読みは「しめす」ではありません。「観」には、「みる」と「しめす」の意味がありますが、「観国之光」の「観」の意味は「みる」であるということは、朱子を始めとして中国の学者の説明にもあります。
 朱子によると「上より下に示すを観(去声)と曰ひ、下より上を観るを観(平声)と曰ふ。故に卦名の観は去声にして、六爻の観はみな平声なり」(『語類』)とされており、「観国之光」の「観」は「観る」となっています。

※去声、平声は発音の違いを表しています。学者によって異なる部分もありますが、「六爻の観」は「観る」であるということは共通しています。「観(しめ)す」は「上から下」へ示すものであるので、「国の光を観す(示す)」という言い方はどこか不遜な印象を受けます。
「上から下」へ観すのは「政」であり、その徳業の結果としての「光」を観る、というのが「観国之光」ということです。
単純に考えても「観(み)る」と「しめす」では、主体が異なります。掛詞ではないのですから、一つの文に二つの主体はおかしい。また、その場合六爻のそれぞれの位はどのように捉えるのでしょうか。そして、「観国之光」の「観」が示すの意なら、他の爻辞の「観」も示すとなるのでしょうか。

<<『易経』の「観光」と、現在使われている「観光」は区別しなければいけない>>

『易経』の意味の「観光」と、現在使われている「観光」は区別して捉える必要があります。現在使っている「観光」は、使われているうちに意味が変わっているからです。

「観」を「示す」とするのは、国際観光局を設置するまでの過程で、日本で付加されたものです。現在使われている「観光」が、易経の「観国之光」とは異なる意味であることを考えれば、易経から切り離された「観光」に、「光を示す」という意味が付加された、といえるでしょう。

『易経』に由来する「観光」は中国で使われてきましたが、現在日本で使われている意味での「観光」はほとんど使われず、「旅游(遊)」が使われています。ここで、「ほとんど」と書いたのは、全く使われていないというわけではない、ということです。よく調べないとわかりませんが、日本人観光客を意識して使うようになったのかもしれません。中国の「旅游」は tourism の意味ですが、「観光」は sightseeing的な意味で使われているように感じます。何人かの中国からの留学生に聞いた話でも、そのようなことでしたが、数人の話を鵜呑みにするのは、現時点では避けておきたいと思います。

<<間違った説明の原因:国際観光局の説明>>

「観光」の語源の誤った説明をする人が観光の分野の専門家・学者の間に増えた原因のおおもとは、おそらく、昭和5年に鉄道省に設置された国際観光局の命名についての説明にあると思われます。国際観光局の説明は次のようなものです。

「観光の字源は、周代に於ける易経の〝観国之光利用賓于王〟から出てゐる。なほ同じ易経に〝観国之光尚賓也〟と見えてゐるが、この場合の観は観兵式が兵威をしめすと解せられるやうに、輝かしい国の光をしめし賓客を優遇する意味と取られ、これは大帝国の建設者たる天分を誇つてゐた古代ローマ人シセロの云ふ〝ホスピタリタス(歓待)は国家のほまれなり〟と共に東西相通じて観光が大国民の襟度と衿恃をしめすものであることを教へてゐる。異国の人々を誘致し、こヽろよく優遇することは、比類なき歴史、伝統、風光、文化を有するすぐれたる国にしてはじめてよくこれをなし得るのであつて、いはゆる長者の落付は自らの国力国情に対する確信と、その確信から生ずる気持ちの余裕から生まれるのである。駸々乎として進んで止まざるわが国柄であるからこそ、観光国日本として、その姿を惜みなく外国に宣揚し、七つの海から国の光を慕つて寄り集ふ外人に歓待の手をさし延ぶべきである、と云ふ大抱負が、すなはちこの観光局の命名となったのである。」

また、これに関連して、井上萬壽蔵の説明が昭和15年発行の『観光読本』に載っています。

「さらにこの文字の由来をさぐればもともと観光といふ文字は支那の易経といふ古い書物のなかに「観国之光」とある文句から取つたのでその意味は一国の風光文物を観賞するといふことであるから、国際的な意味から起こつたことはいふまでもない。なほ、「観」の字には観兵式の熟語におけるやうに、「しめす」といふ訓み方もあるので、一方においては観光とは国の光を他国にしめすことであるといふ解釈もなり立つのである。しかし「みる」と「しめす」とは同一の事がらの二つの現れであつて、ツウリストからいへば「みる」であり、国からいへば「しめす」といふことになるのでけつして矛盾ではない。」

この説明は、戦後に発行された井上の著書にも掲載されていますので、既に紹介した誤った説明の例の説明文と比較して、おそらくこれらがもとになっているものと推察されます。

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2009年5月 8日 (金)

「観光」という言葉 こぼれ話 3

<<勇み足>>

 「観光」という言葉の歴史上の用例について調べていて、勝手な思い込みから性急に判断し、一時誤ったとらえ方をしてしまったことがあります。

 一つは「観光丸」について調べていたときで、‘安政三年にスンビン号に「観光丸」と名付けられた’と書いてあるけれど、その元となる史料が示されていないため、それを探していた時のことです。

 勝海舟の『海軍歴史』や長崎海軍伝習所について書かれた本をみたけれど、それに相当する資料が見つからない。その他のその時代について書かれた本をいくつか見ても見つからない。そして永井玄蕃頭尚志について書かれた本を見る段になりました。

 城殿輝雄の『伝記永井玄蕃頭尚志』を開いていくうちに「伝習艦スムービング号は、永井の命名により観光丸と名を改め、・・・」という箇所が目に入りました。

 多少のひっかかるものがありましたが、この種の本を書く人はよく調べて書いていることが多いので、それをとりあえず信じて、該当する資料が掲載されていないか探しました。

 見つからないので、当初探し方が悪く見落としているかもしれないと思っていたのですが、探し直してみて、結論として「そのような資料はない」という結論に至りました。
 どうやら永井の命名とした根拠としたものは、「永井尚志手記」にある「蘭王蒸気軍艦を贈り、海軍伝習の用を充す・之を名づけて観光丸と曰ふ。」を、誤ってそのように解釈したのではないかと思われます。
 他の史料も調べていたので、「「観光」の語源について」に掲載したような資料もほどなく見つかり、誤りを確信した次第です。ちょっとの間ですが、誤った認識をしてしまっていたわけです。

 私にとっては、たまたま調べている核心部分であり、一時とはいえ大きな誤りをしていたわけです。
 しかしながら、城殿氏の文献については、たまたま一箇所に誤りがあったというだけであり、その文献全体の評価・価値については、大きな問題ではありません。

 もう一つの勇み足は、観光縮緬、観光繻子についてのことです。
 誤りは、佐田介石という人がつくった舶来品排斥・国産品(代用品)奨励を目的とした結社である「観光社」がそれらを売り出した、としたことです。
 これも一時のことですが勇み足でした。

 観光縮緬、観光繻子が桐生で作られたということまで調べてわかったところに、地元の要請で、高崎、桐生、足利に観光分社を開いた、ということを重ねてしまったことによる誤りでした。
 観光社から出された『栽培経済問答新誌』に、観光燈、観光油、観光傘、観光団子などが出ていたので、他に同様に観光○○という商品を出しているところがないことから、勝手に桐生の観光分社でつくられ観光社とともに販売した、というように思い込んでしまったわけです。
 なお、正確には、観光燈ほかを販売したのは、結社の加盟者ですが、結社の趣意にそったものであり、観光社の販売としても差し支えないと考えています。

 観光分社については『等象介石略伝』に出ていて、これは、介石の死後ほどなく出版されているので、間違いはないだろうと推察したわけですが、他に観光分社について記した史料が見あたらないので、今は、まだ調査中ということで、疑問符をつけています。

 また、観光縮緬、観光繻子がつくられたのは、観光分社が開かれたとされる年よりも前のようなので、誤りであることは確認されましたが、まだ、いつ作られたかはまだ正確には確認できていません。

 一時ではあるけれども、思い込みで誤った認識をしてしまいました。
 あとから書かれたもについては、史料(原典)がきちんと示されているもの以外は安易に取り上げてはいけませんね。

 観光繻子について、『大辞林 第二版』に、「たて糸を絹、よこ糸を綿で織った繻子。明治の初め頃、栃木県相生産のものを東京、浅草の観光社で販売したのでこの名がある。」と記されていますが、これは間違いです。
 辞書、辞典類にも誤った記述があることを認識しておく必要があります。

 なお、観光縮緬、観光繻子、また佐田介石の観光社の命名について、これが「観国之光」から命名されたものかどうかは、今のところわかりません。
 観光縮緬、観光繻子については、明治の中期頃から有名だったらしいことはわかっています。

※この記事は、2009.8.8 に書いたものですが、読みやすさを考慮して、記事の並びを調整するため日付を変えて掲載します。また、一部加筆修正しています。

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