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2015年8月 4日 (火)

『単騎遠征録』(明治27年)と『大阪新繁昌記』(明治29年)

『作文便覧』の後を近デジの検索結果から見ていくと、

まず、文献のタイトルのみに「観光」があるものとして次のようなものがあります。

明治12年 『通俗観光余事』 白根多助 著(グラント米国前大統領が日光から戻った時に迎え面会した際の記録)
明治21年 『観光游草』 岡千仭 著(漢学者、大陸を訪れたときの詩文集)
明治26年 『観光図説』 岡本金二郎 編(「観光」の揮毫があるほか、「詔言」に「兵制を更め我国の光を輝かさんと思ひ」という記述があります。[軍服等の図集で、観光とはかけ離れた内容です。光は「輝かす」ですね。光を「示す」というのには違和感を感じます。])

ほかに江戸時代のものの再版の『石立擲碁国技観光』がありますが、囲碁の棋譜集です。

その他、「観光楼」、「観光堂」という出版社名、江戸時代にあった寺「観光寺」、軍艦「観光丸」、「外観光景」という表現から「観光」を検出したものが出てきます。

上記の後に出てくるのが次のものです。

●明治27年 『単騎遠征録』 西村天因 編, 福島安正 閲

これは、前年(明治26年)に大阪[東京]朝日新聞紙上で連載されたものの刊本です。検索に掛かるのは、目次にある「駐馬観光」です。本文中には「うまをとゞめてひかりをみる」とふりがながあります。

「駐馬観光  うまをとゞめてひかりをみる」
「義爾克斯科(イルクーツク)は安牙爾河の右岸に瀕(ひん)し人口大約四万七千、悉比利(シベリヤ)の中心に位し亦第一都会の地にして光を観勢を察する此地に如くなし故に中佐馬を此地に留むる者十日、哥薩克(コサック)騎兵予備歩兵大隊営、専門器械学校、陸軍病院、候補士官学校、小学校、博物館等を巡覧しけり」

とありますが、刊本で加えられた「凡例五則」の中に

「中佐の遠征実に観光審勢に在り其見聞する所軍機に属する者多し」

とあります。

幕末に、会津藩の秋月胤永が、西国優秀列藩を訪れ観察(制度、学制、田制、賞罰。風俗。操練。器械、城郭、物産、交易など)し、『観光集』にまとめていて、その途中、「至薩州」という詩に「観光適及薩摩州」と記しています。また福沢諭吉は、『西洋事情』に中で「但し吾欧羅巴の旅行と雖も僅か期年を踰へされは固より一時の観光のみにて詳に彼国の事情を探索するに暇あらず」と記しています。

これらをみると、いわゆる「視察」といえますが、「観国之光」の対象が、勢いのあるところ、[技術文化等の]進んだところを含めて捉えられてきており、「観国之光」の解釈が拡大・変容してきていることが見て取れます。『単騎遠征録』は、軍人による視察ということもあり、軍機に関するものの比重が高くなっています。

これらは、易経の「観国之光」の解釈の範囲での「観光」の使用例といえるでしょう。

●明治29年 『大阪新繁昌記』 島田小葉著

この文献は、目次(大阪新繁昌記目録)の「中ノ島公園の観光」が検索されて出てくるわけですが、本文では「中之島公園の歓光」と「観」の字が異なっています(読者による「観」の修正書きがあります)。

注目すべき箇所は、目録の各項目の記述に入る前の最初の、書き出しの文章にあります。

「若し夫れ古人を地下に起して今の繁昌を観せしめば、茫然自失浦島子が龍府に往きし感あるべし、是れ大阪の大観を云ふ而巳、是より小観を叙して新繁昌の観光を語らむ」

つまり「観光」の対象として取り上げられているのが目録の各項目で

「一 道頓堀の賑、二 演劇の精妙、三 五花街の繁華、四 千日前の雑沓。五 白鬼の出没、六 四天王寺の尊厳、七 構屋敷の清香、八 桃山の紅霞、九 大阪城の偉観、十 淀川汽船の眺望、十一 天満天神の霊現、十二 造幣局の黄白、十三 堂島相場処の盛況、十四 北陽の花、十五 梅田停車場の煙雲、十六 中ノ島公園の観光、十七 澱江◇涼の快興、十八 博物場の高雅、十九 三大橋の美観、二十 株式取引所の隆盛、廿一 裁判所の神聖、廿二 大阪監獄の石壁、廿三 新町堀江の花月、廿四 松島の四季」

これらをみると、もはや視察ではなく、観光の対象が取り上げられています。つまり、易経の「観国之光」の解釈から離れ、転意して「観光」が使用されているといえます。

この文献中には、「中ノ島公園の観光」のほかに、「博物場の高雅」の項目の中に、

「近頃場内噴泉を設け新たに一の観光を添ゆ」

というのがあります。

これら二つの文献を比べると、視察と観光の違いのほかの、「観光」の使い方の違いが見い出されます。

前者『単騎遠征録』の場合は、秋月や福沢の用例も同様ですが、特定の主体が「観光」をする[した]ということを扱っているのに対し、後者『大阪新繁昌記』では、不特定の主体が「観光」するということを想定して書かれている点です。(この点でも易経の「観国之光」の解釈から離れているといえるでしょう。)

不特定の主体を想定した「観光」の使用例としては、明治16年の日光の保晃会の大会日誌や、明治26年設立の喜賓会の目的にもみられます。

これらの文献の後に検索される明治30年代の文献に、観光の意味で「観光」を使用したものが出てきますし、それ以外にも、いくつかの文献に‘観光’が見いだされますので、遅くとも明治30年代には、現在の観光につながる「観光」の語が広がり始めたといえると思います。

(2015.8.4)

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