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2015年2月19日 (木)

「観国之光」から現在につながる「観光」へ-それを捉える考え方

『易経』の「観国之光」から「観光」という言葉が生まれ、そこから新しい使い方として現在の観光につながる使い方、言い換えると、転意による使い方が生まれてゆきます。

その背景、経緯を捉える基本的な考え方として次のようなものが上げられます。

一つ目は、語源「観国之光」の解釈にある特徴で、それが残っていくことです。

語源の「観国之光 利用賓于王 (国の光を観る もって王に賓たるによろし)」の意味を簡単にいえば、「国(地域)を観察して光輝ある様を見出したら、進んで王に仕えるのがよい」というようなことです。
そこには、観察する国(地域)への移動についてはなにも書かれていません。王は自国にいるかもしれないしそうでないかもしれないから、どこへ行くというような意味を含むことはありません。
次に、光輝ある様は、総合評価のようなもので、特定の対象だけをみて判断するものではないということです。このことは、地域内の移動は必然であることを表しています。このことは、比較的早い時期の用例の中で、「観光順序」とか「観光日程」とかいう表現で現れてきたのではないかと考えています。

「観光」の語の使い方が広がってゆく中でその影響は薄れてゆきますが、初期においてはその影響が大きいと思われます。
(ここには内容は書きませんが、現在の「観光」の語の使われ方にも多少残っているように思います。)

二つ目は、「新しい時代が、新しい使い方を生む」ということです。新しい時代の雰囲気が新しい言葉・表現を求める、といっていいかもしれません。観光に関わるものとしては、特に、
    1.旅行の自由化
    2.交通機関を使った旅行(鉄道、船)
というものが、新しい時代を感じさせる大きな要因だと思います。
そして、文章の扱いを能くする人、進取の気性に富む人、想像力に富む人、情報に敏感な人などが、「観光」を使い始め、使い方・意味を敷衍させてゆくのではないか、と考えます。

三つ目は、「国民の旅行の増加が、「観光」を使う機会を増やしてゆく」ということです。

観光は、休日、休暇その他の自由時間(余暇時間)の中で、日常の生活域を離れる旅行(短距離の小旅行を含む)という形で、ないしは旅行の中で行われるものですから、国民の旅行の動向が、「観光」の語を使う機会の増加、普及に大きく関係していると考えられます。この観点を欠いての考察は意味がないと思います。

「観光」という言葉の認知についていえば、影響を与えたものとして、まず明治40年代前半に来日した韓国、ロシア、アメリカからの観光団の新聞記事が考えられます。朝日新聞(大阪、東京)では、連日、時に大見出しで紙面を大きく割いて報道しています。影響は新聞読者層に限られますが、当時の朝日新聞の発行部数が30万部前後で、目を引くような掲載をしたものは、他の主要紙を加えてせいぜい100万部程度以下ではないかと推測されます。

大正の広重こと鳥瞰図絵師吉田初三郎は、大正10年の鉄道省の『鉄道旅行案内』のヒットで広く名を知られることとなりましたが、大正14年に大正名所図絵社を解散し、「観光社」を設立します。機関誌『観光(KWANKO)』、のちに『観光春秋』という雑誌の発行もしています。交通事業者のほか、宿泊事業者、社寺等からも依頼を受けていますので、関係者には「観光」という言葉が伝わっていったことと推測されます。

昭和5年に鉄道省の外局として国際観光局が設置されますが、これにより、組織、機関名を含め、「観光」が使いやすくなったと考えられます。しかしながら、すぐに多くに広がったわけではないので、各地への旅行者(来訪者)の増加で関心が高まったことや、周辺での使われ方などが関係しながら増えていったと推測されます。
それ以前に設置に至る経緯の中で、また、議会の建議の中などで「観光」と言う言葉が登場していますので、関係者、関心のある者たちに「観光」という言葉が浸透したものと推測されます。

昭和5年に京都市が観光課を設置し、翌年それまでの案内所を「京都市観光案内所」として再整備しますが、これは京都駅前に大きく「観光案内所」と掲げています。これは、京都を訪れる人のうち、少なく見ても年間数百万人以上の人が目にしていたと推測されますので、一般への「観光」の浸透については、これが大きな影響を与えたのではないかと思います。

「観光」の使用は、旅行者の増加に伴い徐々に増えてきていますので、そこに上記のような事柄が重なってきたわけです。

「観光」の語は、使い方が示されたわけではないし、言わば新しい言葉として使われていくわけですから、その使い方には個人差を伴いながら、また上記の「三つ目」のところにあげた事柄などの影響を受けながら、現在のような意味での使われ方に近づいていったと考えられます。

例えば、現在は「視察」と「観光」は別ですが、初期には視察に「観光」が用いられていました。視察と観光を区別するような記述が現れる場面はあまりないと思われますが、確認できているものでは、明治30年代に入ると「視察」と「観光」を区別する記述がみられるようになります。が、明治43年の『観光私記』、これは、実業家の視察団「赴清観光団」の記録ですが、このように視察で「観光」を使用する人も残っていたわけです。、

内容はここには書きませんが、私が把握している史料(資料)から判断すると、概ね、戦前には、現在の観光につながる基本的な使い方が成立したといえます。

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以前は、国会図書館の文献はタイトルの検索程度しかできませんでしたが、平成14年から「近代デジタルライブラリー」の提供が始まり、タイトルだけでなく目次の項目についても検索されるようになりました。また、提供される蔵書数もかなり増え、調査に関係する多くの文献を見出すことができるようになりました。

現時点では、「観光」の語の使われ方を調べるには、「近代デジタルライブラリー」で「観光」を検索するのは基本的な作業です(これをせずにあれこれいっている人もいるようですが話になりません)。

ほかにも「観光」の語が使われている資料の存在を確認する方法は色々あり、それらの内容を確認する作業を、手間暇を要するもの、費用を要するものなどあるので、どこまでやるかは大きな問題ですが、ある程度の全体像の見通しがつけられるくらいにはたどり着くのではないかと思っています。

当時の文献を読んでいるなかで、見出された「観光」の語もいくつかあります。そのようなものも加えてどこまで進むか、といところです。

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