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2012年8月28日 (火)

上田卓爾氏の「筆誅、「観光稿」」なるものについて

検索フレーズにいつもと違う並びがあったので調べてみたらおかしなものがあったと書きましたが、それは標題のものでした。
そこを見てからここを見に来る人もいるようですので、これをほおって置いたままでよいだろうか、という気持ちがあり、諸事雑事にかまけて遅くなってしまいましたが、ここに書くことにしました。私が感じたことと私の考え方と、これからのスタンスについて書きます。
おかしなものに相応しい書き方でよいでしょう。
中途半端なイニシャルの使い方が屈折した印象を与えますね。

掲載内容は次のとおりです。

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筆誅、「観光稿」

いろいろ書かれてるので、ちょいとジャブを。大体読んでもいないのに「観光稿」なんてエラソーに書くことはないんです。ついでにヒトを批判することも、ね、M口S道クン。これだから、T大のヤツは嫌いなのサ(あ、アタシもでした)。なんで「読んでもいない」のが解るかというと「観光稿」の出典が間違ってる。「元史」を見たことがないんですねー、このヒトは(神田の古本屋で6千円で買えるのに)。
「春秋左氏伝」についてもナンカ曰ってるんですが、読んでもいないことは明白。杜預の「左伝癖」も知らんのでしょうな。(え、アナタ知らない?)
 ま、「観光庁」からして「観」をしめす、と読むんだから、在野の一個人(あれ、違ったかな)が誤るのも無理ないか、と思うのでありますが、あまり陰険な手段はお取りにならぬがよろしい(趣味なのかも知れんが)。アタシの書いたものに難癖つけたいなら、根拠を示せばいいじゃないの。こちとら、何か月もかけて「四庫全書」をコピーしてるのに、読みも(見たこともないんでしょうなー、某学会で質問したら、そうご回答なすった。)せずにグダグダ言うのは男じゃない。佐藤春夫ばりに言ってみますか。「さうではないか、M口S道クン」
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まず解せないのが、何かにいらついているようにみえますが、何にいらついてこれを書いたのか、ということです。
タイミングからすると、私が査読に対する怒りを書いたものが関係している感じがしますが。

誰が査読したかは、査読の委員会(編集委員会)と査読者本人しか知らないはずです。
また、私は上田氏の説(後掲します)に対してネガティブな論評をしているわけですから、まともな学会の査読であれば、上田氏が私の論文の査読に関わることはないはずです。

私が書いたものは、査読に対する怒りですから、怒りの表現を不快に思う人がいても不思議ではないと思いますが、まともな研究者であれば、不快の表明だけではなく、査読の問題についてもコメントするはずです。きちんと読まない査読をする者は、査読者として不適格なことは明かです。

それと、査読というのは、学会が認めた論文として公表するための審査ですから、査読の内容が公表されたとしても、まともな査読をしていれば査読者が困るということにはならないはずです。

しかしながら上田氏は査読の問題についてコメントしていません。つまりまともな研究者ではないということなのでしょう。
もっとも、この文章を読んだだけでもそう感じますが。

もう一つ考えられることは、上田氏が査読に何らかの形で関係している場合です。表、つまり査読者としてなのか、あるいは裏からか影からなのか。表からだとしたら、学会の査読が適正に行われていない、ということになります。また、裏とか影からなら、悪質なルール違反ということになります。

真相はわかりません。不可解です。いずれにせよ、内容から判断する限り上田氏と査読者は同じレベルであり、はっきりいってどちらも頭がおかしい。

大体読んでもいないのに「観光稿」なんてエラソーに書くことはないんです。

人をなじるために、何が何でも読んでいないことにしたいようですね。屈折しています。

ここだけについて世間の一般常識からいうと、「余計なお世話」というところでしょうか。それに「観光稿」という言葉自体にエラソーなんて感じる人はいないでしょう。これもなじるために持ち出した言葉なのでしょう。

なんで「読んでもいない」のが解るかというと「観光稿」の出典が間違ってる。「元史」を見たことがないんですねー、このヒトは(神田の古本屋で6千円で買えるのに)。

読んでいないと言い張るために話を盛ってきましたね。何で「元史」が出てくるのでしょう。人をなじりたいがために勝手に話をつくっています。愚かなことです。

長いので「元詩選・・・」と書いていますが、国会図書館の詳細検索で「和古書・漢籍」で「観光」で検索すれば次のものがあり、その中に「観光稿」があります。

元詩選不分卷二集不分卷三集不分卷. 二集甲-戊集(第17-20,26册)

もちろん、インターネットで漢籍のデータベースを探してゆけば見られます。「元史」も見られます。ただで見られます。本がほしいのならともかく、神田の古本屋で6千円なんて、出す必要もありません。自分の知識だけにしか関心がないのでしょうか。それを押しつけてくるのは、だいぶ感覚がずれていますし、視野が狭いですね。

心が曇っていらっしゃるから、「詩」が見えずに「史」と思い込んでしまったのかな。

「春秋左氏伝」についてもナンカ曰ってるんですが、読んでもいないことは明白。杜預の「左伝癖」も知らんのでしょうな。(え、アナタ知らない?)

これも人をなじるために決めつけをしています。まったく愚かでみっともない人です。

それに、「春秋左氏伝」について言っているのではなく、それに関連した上田氏の説について論拠がないとしただけです。掲載している「「観光」の語源について」の中に書いてあります。これに関することについてはあとで書きます。

読んでもいないことは明白

なぜ、根拠のないことをここまで断言できるのでしょうか。「頭がおかしい」としかいいようがない、と思っていたのですが、後掲の秦鼎 校本「春秋左氏傳」のことを書いていてふと思ったのが、次のことです。
上田氏が見たのは静岡県立図書館蔵のものです。それでその本を見た人が他にいるかどうかわざわざ確認したところ、その形跡がなかった。それで読んでもいないことは明白としたのかなと。
しかしながら、後ろにも書いてあるように、この本は刊本で、ほかにも同じ内容のものがあり、それを読めば事足りるわけです。ですから、そのようなことをして言っているのだとしたら、屈折した単なる馬鹿です。視野が狭いというか想像力にかけるというか。

真相はわかりませんが、おかしなことだけは確かです。

ま、「観光庁」からして「観」をしめす、と読むんだから、

これはどういう脈絡で何について書いているのかよくわかりませんが、この人は研究とか学とかについてどう考えているのでしょう。適当でいいみたいですね。

在野の一個人(あれ、違ったかな)が誤るのも無理ないか、と思うのでありますが、

こういう書き方をするのは、自分が大学の先生(金沢星稜大学女子短期大学部)で優秀だと思っているからなのでしょうか。自らをおとしめいるようにしかみえません。みっともないですね。
「誤る」というのは何についていっているのでしょうか。

後に書いておきましたが、基本的なことも分かっていない似非研究者だから、こんなことを平気で書けるのでしょうね。

私の論文に書いていないことにいちゃもんをつけてきた査読もどきと同じようなことをしてきましたね(笑)。

あまり陰険な手段はお取りにならぬがよろしい(趣味なのかも知れんが)。

これも何について言っているのかわかりません。
査読に対して書いた私の怒りについてなのでしょうか。審査料1万円も払っているのに。きちんと読まない、中身のない査読に対する怒りですし、学会をやめるという選択した上でのことですから、誰がどのように取られようと勝手ですが、そのことについて、書いた以上にも、それ以下にも思うことはありません。

そもそも。きちんと読まないで些末な知識で自分の言いたいことを書いてくるのは、査読としては最悪です。査読をする資格はありません。

アタシの書いたものに難癖つけたいなら、根拠を示せばいいじゃないの。

これも何に対していっているのかよくわかりませんが、「春秋左氏伝」に関連することでしたら、根拠は示しています。後で改めて書きますが。
もしかして、まさか上田氏が査読者。もしそうなら大問題です。

こちとら、何か月もかけて「四庫全書」をコピーしてるのに、読みも(見たこともないんでしょうなー、某学会で質問したら、そうご回答なすった。)せずにグダグダ言うのは男じゃない。

「四庫全書」をコピーしているから、優秀だと思いたいのでしょうか。
これも世間一般の常識でいえば「余計なお世話」ですね。自分の基準でしかものをみない、愚かなことです。私には読む必要がないから読まないだけです。

学会の時の質問は「四庫全書を見ましたか」ということだったので、私は「データベースは見ましたが」と答えました。これは確認したいことを確認するために行ったことです。読む必要はないので読んではいません。

そして、私が論文に取り上げていた中国における「観光」の用例よりも「もっと古い用例があります。」とコメントしたわけですが、もっと古い用例があることは知っていますが、論文に取り上げる必要がないので取り上げなかっただけで、上田氏が、どのような意味があってそのコメントしているのか言わないし具体的な例もあげないので、意味がないと思ったので、「ああ、そうですか。」と答えてすませたわけです。

「四庫全書を見ましたか」という質問ははっきりいって愚問です。
なぜ四庫全書を見る必要があるのか、見て何をしたいのか、という点が明らかではありません。四庫全書の研究をしているわけではないのですから。
四庫全書に収録されている文献には、四庫全書でなくても見られる文献は多数あります。それで十分であれば四庫全書を見る必要はありません。

四庫全書を見て、唐の時代より前の時代の文献に「観光」の文字が出てくることはわかります。だからどうしたの?それがどういう意味を持つの?ということです。私の研究では、そこまでする必要はありません。日本で使われている「観光」に繋がる論理がないからです。
ただ調べるだけでは研究ではありません。

付け加えると、日本における「観光」の古い用例についても、私の論文に取り上げられている(取り上げたのは絶海中津(1336~1405)の『絶海和尚語録』ですが)よりも「もっと古いものがあります。」とコメントしたわけですが、何を調べたのかなと思いはしましたが、具体的に示さないしコメントの意図も言わないし、そもそもそのコメントが私の論文にとって意味があるとは思えないので、同様に「ああ、そうですか」と答えてすませたわけです。

こちとら、何か月もかけて「四庫全書」をコピーしてるのになんていうのは、どこか仕事ができない人の言い訳に似ていますね。「努力しているんです」とか「一生懸命やっているんです」とか、違うところで頑張っても結果は伴いません。
もちろん、上田氏が興味を持って四庫全書をコピーしていることに口を挟む気はありません。でも、それは私には関係のないことです。

佐藤春夫ばりに言ってみますか。「さうではないか、M口S道クン」

以上のような、中身のないおかしなことを書いて、こんな言い方をされても、滑稽にしかみえませんね。

この人は自分が書いている内容と自分がしていることの関係がわからないみたいですね。「エラソーに書くことはないんです」とか、「読みもせずにグダグダ言うのは男じゃない」とか。

きちんと読まないで、書いていないことにいちゃもんをつけてくる査読もどきは何なんでしょうね(笑)。

さて、「春秋左氏伝」に関連することを。ちょっと長くなりますが。

最初に言っておくと、「春秋左氏伝」についてもナンカ曰ってるんですが、という表現は正確ではありません。なぜ正確に、具体的に書かないのでしょう。

この件には、上田氏の「観光学における「観光」の歴史的用例について ―「観光丸」から「観光」を見直す―」という論文に書かれている下記の部分が関係しています。

一読しておかしいと感じたので、特に気にもとめていなかったのですが、溝尾良隆氏が学術文献ともいうべき、日本観光研究学会発行の文献で、この説をを紹介したので、「論理的に成立していない説であるので、それを紹介することには問題がある。」と評したわけです。

はじめに基本的なことを書いておきます。いわゆる儒教の経典とされる四書五経のうち、、『春秋』という書物は単独では残っていないため、「伝」と呼ばれる注釈書と一体となったものが、一般に『春秋』(春秋経)と呼ばれています。それらは戦国から前漢にかけて作られたもので、春秋三伝と呼ばれる『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の3つが残っています。時代によってそれぞれの評価・扱いは異なるようですが、わが国の江戸時代を対象とするので、『春秋左氏伝』を主なテキストとして扱って差し支えないと思います。

「六四 観国之光 利用賓于王」は易経にあるわけですが、ほかに、易を実践的に使った、つまり易占の例が、春秋左氏伝の荘公二十二年のところに出てきます。このことは、市販されている易経の解説書のうちのいくつかの中で、「六四 観国之光 利用賓于王」に関連して紹介されています。余談ですが、わが国のものとしては足利易の実践例として「高野山三昧院本」に「六四 観国之光 利用賓于王」が載っているものが紹介されています。

四書五経のテキスト(基本となる書)においては、「観国之光」を「観光」の二文字で表現したものは存在しません。
四書五経について様々な注釈書や解説書が作られてゆきますが、それらの中に「観光」と二文字で表現したものが出ているものが、多くはありませんが、存在します。

この二点を頭に入れて次を見てください。

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(上田氏の論文からの該当部分の抜粋)
さて、このように「観国之光」が「観」の六四の爻辞にあることはわかったが、これから「観光」がどのように導き出されるのか。さきに、「観光」と「観国」の二つがあることを指摘したが、これはどちらも頼山陽の詩の一節 に見られるものである。さらに日本国語大辞典の第二版で新たに追加された「観光」の用例に福沢諭吉の「西洋事情」があるが、ともに江戸時代を生きた頼山陽と福沢諭吉の両者の語彙に影響を及ぼした共通なものがあるとすれば、それは彼らが学んだはずの四書五経ではなかろうか。
ところで福沢は「福翁自伝」の中で若い頃の勉強について述べているが、その中に『殊に私は左伝が得意で大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻でしまうのを私は全部通読、およそ十一度び読み返して、面白いところは暗記していた』 というくだりがある。
江戸中期以降「左國史漢」といって、叙事体古文を左伝(春秋左氏伝)から学び始めるという漢学界の習慣があったと言う。これで頼も福沢も春秋左氏伝を学んでいたことがわかる。次に、福沢が得意とした春秋左氏伝の中に「観光」という語があるのであれば、頼と福沢の「観光」が春秋左氏伝に由来するという可能性があると思われる。
ただ、その確認のためには、現代の注釈の付された「春秋左氏伝」でなく江戸時代に用いられた「春秋左氏傳」によらねばならない。そこで、静岡県立中央図書館蔵の、秦鼎 校本「春秋左氏傳」 を参照すると、その荘公二十二年の項に「観」の六四爻辞、『觀國之光、利用賓于王』が引用されており、その欄外の注釈に『或云観光観天子之耿光(かうくわう)也』(或は言う、観光は天子の耿光(さかんな徳)を観ることなり)とある。これによって江戸時代に「観光」という語が存在していたこと、さらに藩校・私塾などで教えられており、語彙としては普通のものであった可能性が確かめられたことになる。とすれば、従来の「観光」が「易経」からの造語であるとする説よりは、「春秋左氏伝」の中の『観国之光 利用賓于王』の注釈によって「観光」という言葉が生れて広まったとする方がより実態に即してはいないだろうか。こうしてみると、「観光丸」命名の出典は「春秋左氏伝」とした可能性が高いと思われる。
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福沢が得意とした春秋左氏伝の中に「観光」という語があるのであれば、頼と福沢の「観光」が春秋左氏伝に由来するという可能性があると思われる。」という部分を見れば分かりますが、仮説の設定が既におかしいわけです。基本的なこともわからずに論文もどきを書いているわけです。

春秋左氏伝は古くよりあるわけですが、その中に「観光」という表現は存在しません。ですから、ここであえて設定するならば、「「観光」の語が注釈の中にある特定の注釈書等が存在し、それを頼と福沢が見ていたとすれば」というような表現にしなければいけません。

その場合、まずその注釈書が頼が「観光」を使った以前に板行されていなければいけませんし、頼と福沢が春秋左氏伝を読んでいたということは時代背景からしても疑う余地はないと思いますが、その特定の注釈のついた文献を読んだということを示さなければいけません。そして、その文献がある程度普及したことを示す必要もあります。

さらに、根本的な問題として、その文献が普及したとして、それは春秋左氏伝への関心が高く多くの人に読まれたということを表していると解釈することには無理はありませんが、荘公二十二年の易占の部分に注目したということについては、別途示す必要があります。それは、その注釈書を見て「観光」の語を使用した、というような記述がないと示せないでしょう。

さて、上田氏があげた注釈本は、静岡県立中央図書館蔵の、秦鼎 校本「春秋左氏傳」(1811[文化八]年)です。まず、注釈に「観光」を含んだものがあるか確認するわけですが、この本は板行の刊本ですので、静岡県立中央図書館蔵本以外にもいくつか確認できます。また、再刻本も多数出ていて、明治になっても出版されています。古典籍をデジタル化して公開してくれている大学の図書館がありますので、検索して見れば、それで確認できます。

きわめて単純なことですが、この本の板行は1811年ですので、頼山陽が「観光」を記した時期よりも後になります。この段階で、上田氏の説は成り立っていないことがわかります。
また、福沢諭吉についても、春秋左氏伝を好んだことがあげられているだけで、秦鼎の校本を読んだかどうかについては一切触れておらず、読んだということにはならないわけです。福沢の父親は下級藩士とはいえ儒学者ですから、おそらく福沢の読んだ春秋左氏伝はこの校本よりもっと古いものと推察されます。

この点について、掲載している「「観光」の語源について」という論文の中では、「上田の「『春秋左氏伝』の注釈から「観光」という言葉が生まれて広まったのではないか」という説を紹介しているが、『春秋左氏伝』自体には注釈はなく、「観光」が出ているのは秦鼎の校本である。上田も紹介している「観光」の語が出ている頼山陽の詩はその板行以前に作られており、福沢諭吉がその校本を読んだ可能性も示されていない。論理的に成立していない説であるので、それを紹介することには問題がある。」と記しています。

まともな研究者であれば、その確認のためには、現代の注釈の付された「春秋左氏伝」でなく江戸時代に用いられた「春秋左氏傳」によらねばならない。そこで、静岡県立中央図書館蔵の、秦鼎 校本「春秋左氏傳」 を参照すると、という部分に違和感を感じるはずです。年代についての考証がなにもないのですから。

ついでに指摘しておくと、江戸中期以降「左國史漢」といって、叙事体古文を左伝(春秋左氏伝)から学び始めるという漢学界の習慣があったと言う。これで頼も福沢も春秋左氏伝を学んでいたことがわかる、という記述は、意味のない論証にもなっていない記述です。春秋左氏伝は、四書五経のテキストですから、当時の学者なら、頼も福沢も含めて、皆が読んでいたとして差し支えないものですので、あえて書く必要はないでしょう。それに「左國史漢」というのは叙事体古文、ここでは歴史書を指すものですから、四書五経ではなくこれだけを取り上げるなら、歴史書をどの程度読んでいたのかを示す必要があるでしょうし、「左國史漢」を左伝から学び始めたという説は必ずしも一般的ではありません。「左伝」「国語」「史記」「漢書」は、どれを読むということではなく、文章家なら皆読んでいたというものです。ただ、「左伝」が一番手近にあり、それから読み始めたものが多かったかもしれない、ということは考えられますが。

上田氏の説の誤りについてはこれで十分なわけですが、ここに「観光」の二文字が出てきたことには興味がわきます。どこからでてきたのか、という点です。
この本は、校本で、杜預(晋)の集解がもとになっています。杜預の集解は春秋左氏伝の種本ともいうべきもので、それ自体に注釈はありません。がこれを取り扱った人が注釈をつける場合があるわけです。そこで、春秋経伝集解をいくつか見てみましたが、欄外に注があるものでも、「観光」が見られるものはありませんでした。
したがって、秦鼎 校本「春秋左氏傳」 の注釈の中の「観光」の語は春秋左氏伝の注釈の中に書かれたものからの連鎖、ということではなさそうです。

研究論文が公表されたとき、そこに出てくるのは調べたすべてではありません。成果に結びついたものしか出てきません。背後にどのくらいのことがあるのかは論文からはわかりません。だから、単に、あるかもしれないと思うだけのことに「言及する必要がある」、というような修正の指示はしてはいけないのです。同様のことは、科学の実験による論文でもいえるでしょう。ある成果を目指して実験をしたけど失敗に終わって、別の実験をして成功して結果が出た場合、失敗した実験のことは表には出てきません。しかしながら、その失敗実験が、ある仮説のもとである可能性を信じて行ったものであれば、他の人が、その実験の可能性を思いつくこともあります。その時に査読で「このような実験(失敗した実験のこと)の可能性について言及しておくべきである」などとしたら、はっきりいって馬鹿です。研究の背景というものについて知らなさすぎます。想像力が欠如しています。

私が学会で「「観光」の語源について」を発表したときの上田氏のコメントは、先にあげた「四庫全書を読みましたか」ほかのものだけで、この春秋左氏伝に関連する部分については何の意見もありませんでした。

いったいいかなる了見をもって、「「春秋左氏伝」についてもナンカ曰ってるんですが、読んでもいないことは明白。杜預の「左伝癖」も知らんのでしょうな。(え、アナタ知らない?) 」ということを書くのでしょうか。

前に、私が上田氏の説に対してネガティブな論評をしているから、まともな学会の査読であれば、上田氏が私の論文の査読者になることはない、というようなことを書きましたが、それはこのことです。このような了見の方が査読者になっては、まともな査読が行われるとは思えないからです。

私は、読む必然性があるもの、必要があるもの、興味があるものしか読みません。上田氏が、私が読んでいないとか知らないとか、思いたければそう思うのは勝手ですが、このブログを読んでくれた方には、私の研究姿勢は理解してもらえると思います。

さて結論、私のスタンスです。

人をなじるために、決めつけや話を作ったり、あるいは、具体的なものを論理的に示そうともせずこちらに問題があるように思わせるような記述をしたりする行為に対し、私は上田氏が論理的思考や想像力に乏しく、研究者としても人間的にも評価できないので、今後は、上田氏が書かれる、「筆誅、「観光稿」」に類する記述については、ここに書いたことをすべてとして、一切関わりません。

また、改善されそのような記事が削除されることがない限り、この記事並びに査読に関して書いた記事も削除することはありません。

(上田氏と同じレベルのおかしな人物がもう一人いるとは考えにくいので査読者だと思うが。)上田氏は、論文をきちんと読まず、どうしようもないひとりよがりの査読をして、あげくにこのようなものを書いてきた、ということか。

査読の責任者(学会)は、このようなおかしな人物に査読をさせて、どうしようもない査読を私のところにそのまま送ってきたということか。無責任というか、上田氏と同じレベルというか。

このような状況では、日本観光研究学会に論文を出すこと自体が馬鹿らしく思えます。投稿する意味も価値も見いだせません。観光研究の進展に結びつかないのだから。

もう一つついでに、上田氏の「観光学における「観光」の歴史的用例について ―「観光丸」から「観光」を見直す―」という論文の中身に関してもう一つ書いておきます。

この論文はタイトルにあるように観光丸に関することが多く書かれていて、色々な資料を取り上げています。しかしながら、論文に書かれている「献上の月日についてはオランダ国王からの献上についての続徳川実記の記述が欠落しているため、明らかではないが、他の資料から判断して安政2年(1855)8月25日と見てよいであろう。そして「觀光丸」と命名されたのは翌年の4月と推定される。」という記述を見ると上田氏は一体何を調べているのだろうと不思議に思います。

スームビング号(観光丸)献上の日が安政2年8月25日と文献に書かれていること、観光丸と命名された日が、翌年の4月と書かれているということは、どういうことなのかという想像が働かないのだろうか、ということです。「年」だけなら前後関係の資料から推定ということもあるでしょうが、「月」や「日」まで書かれているということは、何かしらの史料があるということです。つまり、まずそれを探すのが、まともな研究のアプローチです。それをしないで、「と見てよいであろう」とか、「と推定される」とかで片付けてしまうのはおかしな論文といわざるをえません。

それと、江戸に史料がなければ、長崎に史料があるのではないか、という想像も働かないのもおそまつです。

献上の日については、長崎奉行の日記に書かれていることが、上田氏が参考文献にあげているオランダ村発行の『観光丸』という文献に出ています。何を読んだのでしょうね。
命名の日は、長崎の史料を探せば見つかります。私はそれで見つけました。

命名の日に関する史料を見つけてから、必要があれば次の調査をする、というのがまともなアプローチです。
命名の日の史料を見れば、命名者が永井玄蕃でないということは明かですし、遠藤但馬守が関わっているらしいと推測されます。

この論文の中で佐野藩の藩校の名称「観光館」について、正式には觀光館擇善堂としていますが、その根拠となる出典が記されていないため検証のしようがありません。いい加減なものです。(残念ながら私は、正式にそうだといえる史料にはお目にかかれていません。)

この論文に書かれている多くの部分は、観光学の論文としてはほとんど意味がないので、私は、前にも書きましたが、読んでおかしいと思って問題にしていなかったわけです。
それを学会が発行する文献に取り上げる人もどうかと思いますし、このような人に査読をさせて、8ヶ月もしてから送ってくる学会もどうかと思います。
そもそもこの論文くらいきちんと読んでいればレベルがわかりますから、上田氏を査読者にすることはなかったでしょう。いったいどのような判断で査読者を選んでいるのでしょう。
まともに対応する気にはとてもなれません。笑うしかありませんね(笑)。

そういえば、査読の中に「マナー」と書いてありましたが、自分の論文を批判している研究者が書いた論文の査読は受けない、というのが研究者のマナーです。マナーがわかっていないですね。もっともそれが分かる人なら、このような状況にはならなかったわけですが。

【追記:2014.6.22】

検索フレーズに、上田氏の論文「観光学における「観光」の歴史的用例について ―「観光丸」から「観光」を見直す―」を探していると思われるものが出てくることがあるので、その場所を示しておきます。

その論文は、(一財)アジア太平洋観光交流センターのホームページにあります。[事業内容]の中の「観光に関する学術研究の振興」の「過去事業」の[観光に関する研究論文]にあります。
「過去の入選論文」の「第11回」にあります。 →  こちら

この論文は入選論文ですので、「おかしな論文といっているのになぜ」と不思議に思う方もいると思います。それには理由があります。
はっきりいえば、審査が粗雑だからです。
ある大学の先生が、学会の投稿論文の査読で落としたものが、ここで入選しているとあきれていました。その一つだけで言っているのではありません。同様のものが複数あることを知っています。だから審査が粗雑で、入選していても不思議ではないと思うわけです。

書き出したのでついでに。

この論文に、「「観光丸」の「観光」の出典について言及したものはすべて、易経「観」にある「観国之光」をあげているが、「観国之光」がなぜ「観光」になったのかの理由については言及していない。僅かに井上萬壽蔵が「観国之光」からの派生語として「観光」と「観国」が同旨であることについて言及したものがあるるだけである。」という箇所があります。

「観国之光」の意味を考えれば、「光」に意味があるわけですから、二文字で表現すれば「観光」になるのは必然だといえます。朱子が「観光」と表現していることは私の論文に書いてあります。

問題は、「「観光」と「観国」が同旨である」ということをそのままにしている点です。この二つは頼山陽の詩に出てくるものです。

私は、頼山陽の詩に「観光」のほかに「観国」があることを紹介したことがありますが、これは、同旨ということではなく、頼山陽が「観国之光」に注目し意味を理解して使っていることの現れとして紹介したものです。

「観国」は、詩に「年少吾将事観国」(年少[わこ]うして吾将に観国を事とせんとす)と出ています。ここだけで推測すると、年少、つまり未熟なので、光を観ることに意識が至らず、ただ国をようとした、というような見方もできそうですが、後に続く句に理由が書かれています。

「時平誰復索封侯」(時平らかにして誰か復[また]封侯[ほうこう]を索[もと]めん)

簡単にいえば、平和な世になり、あえて光を観いだし行動する-利用賓于王-意味がなくなった、ということです。だから「観国」としたのではないかと考えます。もちろん、頼山陽がそう考えたかどうかを正確に知るすべはありません。

いずれにせよ、「「観光」と「観国」が同旨である」としたままにすることは問題です。

※なお、上田氏の書いたものを読んでこちらに来られた方でも、研究に関する質問や疑問などがあれば遠慮なくコメントにお書きください。観光研究を進めるためのものであれば、私が書いたものへの疑問や誤りの指摘であっても歓迎します。(以前いいただいた指摘で、本文にあった誤りは修正して削除しましたが、コメントには、そjの指摘へのお礼を書いたものが残っています。)

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