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2012年7月12日 (木)

日本観光研究学会 退会顛末

昨年(2011年)9月、日本観光研究学会の機関誌『観光研究』に、

      「現在使われている「観光」の語の語源について

という論文を投稿しました。このブログに掲載されている、「「観光」の語源について」の元になっている論文です。その査読結果が、なぜか8ヶ月も経ってから送られてきました(2012.6.3着)。

査読結果を読んで、その内容にあきれて笑ってしまったのと、査読審査料1万円も払っているのに、論文をきちんと読まない見識のない人に査読をさせている学会に腹が立ちました。
論文をきちんと読まない査読は、投稿者を馬鹿にしています。これで怒らなければどうかしています。

以前の投稿論文での査読で、非論理的な指摘があり、それに異議を申し立てるという面倒くさい目にあっていることに加え、今回は話にならないほどひどいということで、今後、学会にいて会費を払い続けるのもばかばかしいので、すぐに次のメールを編集委員会に送り、学会事務局宛に退会のメールを送りました。

昨年の9月後半には査読にまわしたことを編集委員会に確認していましたので、これが2、3ヶ月程度で結果が戻ってきたのであれば、きちんと読む人に査読させてくださいと文句をだしたでしょうが、なぜか8ヶ月もたってのことなので、時間が経つことの不利益もあるので、どうしようもないと思ったわけです。

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日本観光研究学会編集委員会 御中

査読結果を受領しましたが、私には理解不能なため、投稿を取り下げます。

特に、論旨と違うことまで書かれている点は、何なのだろうと不思議に思います。
若干の補足修正は必要かもしれませんが、大半についての反論、説明にエネルギー
を費やすことに意味を見いだせません。

追って、学会事務局に通知し退会します。

溝口周道
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この件について、論文と査読内容を掲載して問題を明らかにしてゆきたいと思います。
また、その解説を通じて、私の考え方や、「観光」の語源に関連する補足などを行っていこうと思います。[あくまでも観光学という分野での研究における私の考えです。]
(2012.6.18)

何日か前、検索フレーズにいつもと違うのが並んでいたので調べてみたら、「これかな」と思われるページが出てきました。それは別項に掲載しています。
内容はここに書いた査読と似たようなレベルのおかしなものでした(狢連かな)。
話をつくっていちゃもんをつける、よく似ています。
その人が何らかの形で査読に関わっていた可能性が見いだされました。
事実だとすれば、あきれるしかありませんが、私の論文は、酷い扱いを受けたものだと改めて認識させられました。
それで、退会顛末の記事は、しばらくしたら削除しようと思っていましたが、白紙に戻しました。
(2012.10.12付記改)

※※※※※※※※※※※※※ ま え お き ※※※※※※※※※※※※※

私の仕事は観光地づくりのお手伝いで、プランニングやコンサルティング、関連する調査研究を行っています。観光の振興と相まって、観光(旅行)により人々の生活や心が豊かになり、文化レベルが向上することが大切で、それに伴い観光の社会的な位置づけが向上し、社会の認知のレベルが上がることが、私の仕事のやりがいややりやすさとして跳ね返ってきます。
そのための重要な事柄の一つとして、観光の歴史の研究を行っています。

観光の語源の研究自体は、そのためにはそれほど重要だとは思っていませんが、観光の専門家である一部の大学の先生方を始めとして、多くといってもいいくらいの方が、観光の語源について調べもしないでいい加減なことを書いたりしゃべったりしていることは、観光の社会的地位の向上にとってマイナスとなり、私を含めた観光の専門家の評価にもマイナスに作用するおそれがあるので、それを正さなければいけないと思って始めたわけです。

「「観光」の語源について」論文を発表したことで、その後インターネット上からは、、かなりの部分のおかしな説が消えたことは、大きな成果だと思っています。ただし、すでに出版された文献はそのままですので、この問題についてはしばらくの間アピールを続ける必要があるだろうと思っています。

語源の研究自体は、これまでに培った情報収集能力及び分析能力、ものの見方・考え方(歴史観を含む)をベースに応用しているだけですので、それなりの物理的な時間はかかりますが、研究の苦労はそれほど大したことではありません。ただ、大学の教員等の研究者ではなく民間の一研究者なので、資料があるとわかっていても簡単には見ることができない場合があります。それをどうするか、という点が苦労といえる点かもしれません。それでも、これまでは、情報収集能力を駆使して乗り越えることができました。

例えば、小宮山楓軒の『観光詞翰』という文献は、静嘉堂文庫蔵なのですが、どのようにすれば見られうのかよくわかりませんでした。そこで、水戸藩の方なので、もしかしたら茨城県か水戸市の図書館にあるのではないかと考え探したら、茨城県立図書館にコピーがあってそれを見ることができました。
(2012.6.23)

● 査 読 ●

私自身いくつか査読をしたことがあります。その際、次のような考え方で行っています。
観光の学会なので、観光に関係する論文なのか、という問題が出てきますが、厳密な線引きは難しいですから、曖昧なときはそこは後回しにします。

最初にチェックするのは、論理的に誤りがないか、データ処理に誤りがないかという点です。次に、既往の研究との関係で、既に研究されているものであったり、あるいはそれを踏まえていないものであったりするものをチェックします。言い換えると、新しい知見が得られているかどうかということにもなります。

この段階で大きな問題があれば基本的には不可とします。その時は、観光に関するものかどうかの判断は必要なくなります。経験からいうと、観光研究かどうか疑問を感じるものはここで総て落ちてしまいました。

おかしいと思ったところは、読み返し、必要があれば調べて確認します。統計を扱っていれば、計算し直しておかしいことを確認します。

以上の基本的なところをクリアしていて、特に修正を求める箇所等がなければそのまま可となるわけですが、残念ながらそういう論文には一編もあたっていません。

修正を求める場合、例えば説明の補足を求める場合は、論拠をより明確にしたり、わかりやすい表現を求めたりすることがあります。そのほかでは、資料の取り扱いにおける軽微な誤りなどもあります。年次の表記など数字の部分は誤記しやすいし、そもそも引用した資料が誤植だったというような場合もないわけではありません。内心は「しっかり見直してから提出しろよ」と思ったりするわけですが。そして誤字も修正させますが、万が一自分の知らない用例ということもあるので、難しい場合は辞書で調べることもあります。

大事なのは、新しい知見が得られたり観光研究の発展に寄与したりするなど、価値のある論文かどうかということだと思っています。論理的に問題がなくて、基本的な論述、表記はしっかりしていなければいけませんが、いたずらに些末なことがらにこだわるようなことはしません。そのことによって何がプラスになるかというと、ほとんどないからです。

◇査読者のポジション

査読される論文の著者は、原則としてわからないようになっていますので、立場や地位にかかわらず、誰でも同じように査読を受けます。実際には、参考・引用文献などからわかる場合もありますし、大会で発表した論文が関係していればわかります。
それとは別に査読を差配する事務局に関係していれば、当然わかってしまいます。その関係でちょっとずるいことが行われたことがある、という噂を耳にしたこともあります。

学生のようなまだ駆け出しの研究者等を除いて、それなりの研究者が査読者をつとめるわけですので、基本的には、研究者も査読者も、対等な関係にあるといっていいと思います。

しかしながら、中には、偉いと思っているのか評論家みたいに思っているのかわかりませんが、勘違いしている人がいます。

今回の件の中で、「労作であり」、「力作であるが」といういようなコメントがありましたが、査読としては全く意味のない理解に苦しむコメントであり、付け加えるなら私としては、この程度の論文でそんな風に評価されるような低能ではない、と自負しています。ひとりよがりの失礼なコメントです。(そもそもこの査読者もどきは論文をきちんと読んでいないわけですから、それで「労作」とか「力作」とかいうのもふざけた話です。)
また「人文科学を軽視しがちな観光学の諸研究に」というコメントは、査読として意味のないコメントであることは明かですし、そもそもどこでそういわれているのか、なんで人文科学云々という捉え方をしなければならないのか、これも理解に苦しむところです。評論家もどきのコメントには、何を勘違いしているのだろうと思います。大切なのは、論文として必要なことを満たしているかどうかだけです。

◇迅速性

査読が迅速に行われないということは、学会の質・レベルの低さの現れといえます。その一つは、まともに査読が行われる体制がない、査読を行える見識のある人材が十分でない、ということです。

次に、研究の進展の妨げになることです。それは学会にとってもマイナスであり、査読を受ける研究者にとっても問題です。また、もし公表される前に別のところで似たような論文が発表されたとしたらどうするのでしょう。

今回の件でいうと、昨年(2011)9月に投稿して,その際手続きに齟齬があったので確認したら、投稿手続きはすんで査読にまわしたとのことでした。それが8ヶ月もたって修正の連絡があり、査読結果が送られてきました。そのままやりとりをしたとして、掲載されるのはだいぶ先になると予想され、その時点で馬鹿らしくなってきた、というのが本音です。

◇公平性・論理性

公平性というのは、査読者の個人的な主張、個人的な研究の視点・観点等にもとづいて査読・コメントしてはいけないということです。私の経験からいうと、そのようなコメントは論理性を欠いているように感じます。

以前「「夏はいかにも涼しきやう」の伝統と演出」という論文を投稿したときに、「文学作品を扱った論文は研究の位置づけがあいまいになる」というようなコメントをされました。
まったく非論理的なコメントです。文学作品を扱うことと研究の位置づけは関係がありません。また、研究の位置づけといっても、既に何らかの研究がなされているテーマに沿った論文であれば研究の位置づけをはっきりさせなければいけませんが、そうでなければ、研究の位置づけは、観光研究であるならば、目的と内容がずれていない限り問題はないはずです。

おかしなコメントなので、当然、異議を申し立てたわけですが、それに対して査読の責任者から、「研究者にはそれぞれの’観’がある」という説明があり、私の論文の研究の位置づけが不十分であるかのようなニュアンスのコメントありました。しかしながら、具体的な指摘はないので、何をいっているかわかりませんでした。

この査読の責任者は、以前私が学会の全国大会で「観光の用例」について発表したときに、「そのようなことはもうわかっている。教えてあげる。」というようなコメントして肝腎なことは何も言わなかったので、「この人は何を言ってるんだ?」とおかしく思った人でもあります。

そもそも、「それぞれの’観’がある」ということを査読に認めていることが間違いでしょう。この人は、自分の’観’で、観光の語源について自らの著書に誤りや根拠のないことを並べ立てた人でもあります。

そのときは異議が通り、掲載となったのでそのままにしてしまいましたが、今思うと、査読のあり方について申し立てをすべきだった、と感じます。
実際、現在も、査読の体制や査読の責任者、査読結果についての異議の申し立て先などは明示されておらず、それだけでも大きな問題だと思います。

(2012.7.9)

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