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2010年10月21日 (木)

「観光」の語源について

2010年10月21日掲載

<‘「観光」の語源について’を掲載する前に一言>

私は、仕事の中で、「観光の語源は」というようなことを自ら進んで話すことはありません。もちろん、聞かれたら答えますし、仕事で関わった方が間違った説明をしていれば訂正します。

話さない理由は、意味がないからです。このブログにも書いてありますが、『易経』の意味での「観光」と現在使われている「観光」とでは意味が異なるからです。

「観光」の語源について調べ始めたきっかけは、いわゆる観光学を標榜する文献に書かれていることに疑問を持ったからです。「これ、おかしいんじゃないかな」と。
それで、調べてみるとやっぱりおかしかった(笑)。

調べているうちに興味を持つようになったわけですが、特に、現在使われているような意味に変わってゆく過程に興味を持っています。
ただし、現在の手垢のついた言葉の観光、俗化したイメージを持つ観光、いわゆる団体旅行といわれる主体性の乏しい観光ではありません。もちろん商売をする側の観光でもありません。
主体性のある個人の旅の中の観光です。そこでは、地域に向けるまなざしの背後にある意識が関係しているのかもしれません。
「国の光を観る」という言葉を意識することでまなざしに変化が現れるのかもしれません。

<注>

※ここには、日本観光研究学会第25回全国大会論文集に掲載の内容を載せています。(要約、キーワード等は省いています。)
※頁数が4頁と制限されているため、十分な内容を書き込めてはいませんが、要点は理解できると思います。また、詳しい内容のものは、別途公表の予定です。

2014年3月21日お知らせ

こちらに少し詳しいものを掲載しています。(pdf)

     → 現在使われている「観光」の語の語源について

<ポイント>

現在使われている「観光」という言葉の語源は、『易経』の観卦の爻辞「六四、観国之光 利用賓于王」ですが、江戸時代に幕府が朱子学を奨励し、易経を学んだり研究したりする人が増えた中で「観国之光」という言葉に注目する人が増え、「観光」という言葉が使われ広がり始めました。
確認された江戸時代におけるもっとも古い用例は、延宝八年(1680年)のもので、『観光亭記』として記されています。
「亭」つまり眺望を楽しむ小さな建物に「観光亭」と名付けていますが、その説明に「観国之盛徳光輝・・・青年志学進徳常観国之所以致盛徳光輝者・・・故号其亭曰観光矣」とあり、この観光は易経に由来し、朱子学(『程伝』)の解釈が引用されていることがわかります。


「観光」の語源について

                                                                                                  溝 口 周 道

はじめに

 現在使われている「観光」の語源が『易経』の観卦の爻辞「六四、観国之光 利用賓于王」の「観国之光」であることは、そのように認識されて使われてきたこと、また、地域(国)にまなざしを向けるという意味を含んだ言葉を探した場合、ほかに適当なものが見出せないことから‘確からしい’といえるが、「観光」の語が、わが国で使われ広まり始めるに至った経緯については、これまで示されていない。その一方で、観光学及び関連の文献の中では、例えば「「観光」が使われたのは観光丸が最初である」というような、間違った説や根拠のない説が横行している。その要因の一つは、基本的な資料を調べないで軽々に記述していることであり、『国書総目録』ないし『古典籍総合目録』を調べたものはなく、辞典類を調べたのは上田卓爾(1)のほかには見られない。もう一つは、他の文献に記述されている内容を吟味せず(吟味できず)に紹介し追認していることである。それらは、それぞれの著者の資質の問題であり読み手の問題であるといえるが、同じ間違いを有する多くの文献が出版されることで、それがあたかも正しい説のごとき印象を与えていることは、学問的犯罪といわれても仕方のないような状況である。
 最近の出版物『観光学の基礎』にある溝尾良隆の「観光の語源と意味」(2)では、従前の問題に止まらず誤説が増えた分問題を深化させている。この文献は、まず、易(本文)と象伝を混同するなど基本的な理解に欠けている。そのためか意図が明確でない易経の説明が多い。次に、観光丸にこだわった記述が多いが、なぜ観光丸に注目するのか、語源の説明における観光丸の位置づけは何なのかが示されていないし、そもそも観光丸の命名に関する史料が示されていない。また、沢木泰昭(3)と上田卓爾(1)の文献からの引用が多いが、内容を吟味せず取り上げていることには問題がある。観光丸に関する記述については、両者とも命名に関する史料を欠いているので、正確な論証を加えずに紹介することには問題がある。沢木には根拠の定かでない記述が多く読み物の域を出ない。上田の「『春秋左氏伝』の注釈から「観光」という言葉が生まれて広まったのではないか」という説を紹介しているが、『春秋左氏伝』自体には注釈はなく、「観光」が出ているのは秦鼎の校本である。上田も紹介している「観光」の語が出ている頼山陽の詩はその板行以前に作られており、福沢諭吉がその校本を読んだ可能性も示されていない。論理的に成立していない説であるので、それを紹介することには問題がある。溝尾の文献は、日本観光研究学会の出版物であることからその影響の大きが懸念される。読む人に誤解や混乱を与えるとともに、このテーマに関する研究の進展の妨げとなるので、早急に正してゆく必要がある問題である。
 本研究は、以上のような認識のもとに、「観光」の語源について、特に「観光」の語がわが国で使われ広がり始めてゆく初期の経緯を明らかにすることを目的とする。なお、これまでに示されている「観光」の用例を考慮して、扱う時期は幕末までとする。

1.わが国における易学の展開(4)

 学問僧等によりもたらされた上代における易学は、漢唐の古注釈により易経本文の理解に終始した。
 鎌倉・室町時代には、宋学、特に朱子学が禅僧によって将来され、禅僧の間に儒仏混淆、儒仏一貫の思想として受容された。その間南北朝時代からの戦乱の多い時代にあっては次第に低迷していったが、その中で足利学校だけが儒学の学校として僧俗一般に開放されていた。足利学校で学んだ禅僧や大陸に渡った禅僧などにより、戦乱を避けた五山禅林に儒学(易学)が伝わった。そして、足利学校や五山禅林には多くの典籍が蓄積された。しかしながら、中世の易学は、受容と解読が中心であった。
 室町末期に、相国寺から藤原惺窩(1561~1619)が出て儒仏混淆から儒学を独立させ、宋代の新注(程朱学)を全面的に取り上げて、江戸儒学の開祖となった。さらに、その弟子に幕府の官学を開いた林羅山(1583~1657)が出るなどして江戸儒学の基礎が確立された。惺窩には『伊川易伝(程伝)』、羅山には『朱子本義』・『易経大全』等の加点本があり、上梓されて江戸初期に流布した。これらを基礎として、江戸時代には幕府による朱子学の奨励(「寛政異学の禁」(1790)で朱子学は正学とされた)を背景に、朱子学が広まり、易学においても盛況を呈することになった。なお、朱子学(程伝)は、「観国之光」に「観見国之盛徳光輝也・・・」という、漢唐の古注釈には見られない明確な解釈を与えている。

2.「観光」の語の伝播:「観光」の用例

 以下において「国書」は『国書総目録』に記載されているものを、[井上]、[上田]、[沢木]は既に井上萬寿蔵(5)、上田卓爾(1)、沢木泰昭(3)が紹介した用例であることを示している。

(1) 漢唐の古注釈を背景とした用例
 中国で「観光」の語がいつ頃から使われ始めたかはわからないが、確認された最も早い時期の用例は、唐詩の中に観られる。『全唐詩』(1703)より「觀光」を検索すると、息夫牧「冬夜宴蕭十丈因餞殷郭二子西上 序」の「觀光王庭」ほか易経に由来すると見られるものが多数ある。それらは著名な詩文ではないため、いつ頃わが国に入ってきたかは現時点ではわからない。
 その後の用例の中に『宋高僧伝』(988)ほか仏教関係の典籍6)がある。『宋高僧伝』は禅僧が将来しており、「唐揚州大雲寺鑒真傳」の「雖新發意觀光兩京名師陶誘」を含め5つの用例がある。
 わが国でも禅僧による用例がみられ、絶海中津(1336~1405)の『絶海和尚語録』(6)に「振策觀光上國」、景徐周麟(1440-1518)の『翰林葫蘆集』に収められている「九・興宗明教禅師行状」にある「希宗曰某久欲観光於中華」(上村観光『五山文学全集』所収、『日本国語大辞典 第二版』(小学館)掲載[上田])ほかがある。しかしながら仏教関係者以外での用例は見出されていないので、そこから一般に広がった可能性はほとんどないと考えられる。

(2) 朱子学の注釈を背景とした用例
 朱子『語類』(1270)巻七○に「九五為主。・・・六四卻見得親切,故有觀光利用之象。」とあり、「観国之光」を「観光」と表現している。『語類』については、東京大学総合図書館蔵本(宋黎靖徳輯・明拠成化9年咸淳6年(1270)郡斎刊本重刊後修)に林羅山の朱圈・句読と林鵞峰の書入れがあることから、江戸幕府の朱子学推進の基礎を築いた人物が「観光」の語を目にしていたことがわかる。
 江戸時代における用例は17世紀後半からのものが確認された。
 『観光亭記』(延宝八年(1680)、祐徳稲荷神社(中川文庫)蔵、国書)は「亭」つまり眺望を楽しむ小さな建物に「観光亭」と名付けているが、その説明に「観国之盛徳光輝・・・青年志学進徳常観国之所以致盛徳光輝者・・・故号其亭曰観光矣」とあり、この観光は易経に由来し、『程伝』の解釈が引用されていることがわかる。
 高辻黄門公が京都に建学を構想し、その設計を儒学者中井竹山に命じ、竹山は、天明二年(1782)、「建学私議」および図面を呈上した。その学校が「観光院」と名付けられたが、「学校ノ統名ヲ観光院ナドヽ遊バサルベキカ、易ノ観ノ卦ノ六四ノ爻辞ノ観国之光利用賓于王ニ拠リ申候」とあり、易経に由来するものであることが記されている。なお、「観光院」は京都の大火などにより実現していない。
 大田南畝の『観光集』(寛政六年(1794)、国書)については所在が不明である。国立公文書館内閣文庫蔵本の大田南畝の『一話一言』巻十九では、寛政六年のところに『観光集』と記載されている。『一話一言』で『観光集』の前に記載されている『七観』(7)という作品は江戸の繁華の地について記したものであるが、その書き出しの部分に「将以観国之光乎。」とあり、南畝が「観国之光」という言葉を意識して使用していることがわかり、その点を踏まえると『観光集』の「観光」は易経に由来するものと推察される。
 頼山陽の詩の「観光足識帝王尊」[井上]は、寛政九年(1797)の東行の際に京都を見物した時のものでその意味から易経によるものと判断される。
 秦鼎の校本の『春秋左氏伝』(文化八年(1811)、群玉堂刊、静岡県立中央図書館蔵[上田])の「荘公二十二年」のところの注釈「或云観光観天子耿光也」は易経によるものである。
 小宮山楓軒の『観光詞翰』(文政二年(1819)、静嘉堂文庫蔵、国書)は、張斐の書簡、詩文等の写しその他で、書名についての説明はない。小宮山楓軒は朱子学を重視した水戸藩の学者であり、次の立原万に学んでいるので、書名の「観光」は、易経に由来する可能性は大きいと思われる。
 水戸藩の儒学者である立原万の『観光紀節』(文政七年(1824)、国立国会図書館蔵、国書)は、水戸の年中行事を記したもので、冒頭の文章に「誰観国之光」という句があり、この題名の「観光」は、易経に由来するものと判断される。
 本因坊丈和の『国技観光』(文政八年(1825)、国立国会図書館蔵ほか、国書、[沢木])は、囲碁の布石の講義と丈和個人の打碁集であるが、序に、「其技益精。卒為天下之冠矣。(中略)。世之同好者。得而観之。其亦庶乎知所法而入宏妙之域成夫。」とあり、「観国之光」の「国」を「囲碁(国技)の世界」に置き換えた表現と見ることもできるので、この「観光」は易経による可能性が認められる。
 林培斎の『観光集』(天保の頃(1840頃)、国書)は、所在は不明であるが、著者は林家第九代の大学頭であることから、書名の「観光」は易経に由来している可能性は大きいものと推察される。
 幕末の軍艦観光丸[井上]については、史料に「手附江 献貢蒸気御船以来観光丸と相唱可申旨遠藤但馬守殿被仰渡候段永井玄蕃頭より申越候条可被得其意支配之者江も可申渡候 辰四月」(『長崎幕末史料大成3』所収、長崎文献社)とあり、安政二年にオランダ国王より贈られたわが国初の蒸気船軍艦「スームビング号」が安政三年四月に「観光丸」と名付けられたことがわかる。観光丸の命名に関する史料はこれだけである。朱子学を正学とした幕府の命名であり、また、オランダに発注した軍艦のうちの一隻で、わが国二番目の蒸気船軍艦が「咸臨丸」と名付けられ、それが易経に見られる言葉であることから、「観光丸」の名前は易経によるものと判断される。
 会津藩の秋月胤永は、安政六年から万延元年にかけて西国優秀列藩を訪れその制度・風俗等の観察の記録を『観光集』7巻(万延元年(1860)、鹿児島県立図書館蔵ほか、国書)にまとめた。そのことは秋月の墓碑銘に「既而以藩命歴遊海内。観政察俗。著観光集七巻。」(8)と記されおり、この「観光」は易経に由来するものと判断される。また、その西国旅行中の詩に「観光適及薩摩州」(万延元年(1860))(8)という句がある。さらに、秋月胤永は、松原彦卿の書画帖を『観光帖』(明治二年(1869))と名付け跋文を書いた8)。松原彦卿は、書画帖を多くの人に観察させ、「久之四方之風俗人情湊合於寸胸也必矣」と記している。つまり、優れた人物による書画を集めたものは、国内の風俗や人情の様が集まっており、それが察知され記憶される、というのである。これは、それらが書かれた時代の「観国之光」に相当するものと考えられる。
 高杉晋作の『観光録』(文久三年(1863)、高杉家蔵、国書)は、晋作が交流した他国人名録で、「文久3年3月、将軍家茂上洛前後、全国から京都に集まって来ていた人々との交友録と思われる」(9)。書名についての説明はないが、晋作は藩校の明倫館や江戸の昌平坂学問所などで学び漢学を修めており、「人材を国の光」として捉えた可能性もある。
 下野佐野藩に元治元年(1864)に設立された藩校の名称「観光館」[井上]については、『日本教育史資料』に「元治元年甲子十一月ニ至リ旧藩主従五位堀田正頌初メテ文武ノ学館ヲ創設シ之ヲ観光館ト号シ藩中士族ノ子弟ヲ教導セシム」とある。命名についての説明は欠いているが、「学科」として最初にあげられているのは「漢学 朱子学派」なので、この「観光」は易経に由来するものと推察される。
 福沢諭吉の『西洋事情』(慶応二年(1866))「小引」に「吾欧羅巴の旅行と雖も僅か期年を踰へされは固より一時の観光のみにて詳に彼國の事情を探索するに暇あらず」(『日本国語大辞典第二版』(小学館)掲載[上田])とある。文中に「各国の政治風俗を観る」とあり、この「観光」は易経によるものと判断される。

3.まとめ

 以上から、現在使われている「観光」の語源について、わが国で使われ広がり始めた経緯をまとめると次のようになる。
・中国の古典、儒学の経典である『易経』の観卦の爻辞「六四、観国之光 利用賓于王」から生まれた「観光」の語は、古くは唐詩の中に確認される。中世に禅僧によって「観光」の語が見られる『宋高僧伝』等の典籍が将来され、わが国では室町期の仏教関係の典籍の中に「観光」の用例が確認される。しかしながら、これは限られた層での使用であり、一般には広がらなかったと考えられる。
・江戸時代に幕府が朱子学を奨励したことで、支配者層、学者、文人その他に朱子学(儒学)を学ぶ者が広がり、その中で『程伝』(朱子学)の解釈とともに「六四、観国之光 利用賓于王」が注目され、「観光」の語が使用されるようになり、これが現在の「観光」の語に繋がる始まりと考えられる。なお、『朱子語類』の中に「観光利用象」と表現されており、それを江戸時代の朱子学の基盤を築いた林羅山、林鵞峰が見ていたことが確認された。
・江戸時代の「観光」の用例で、確認されている最も古いものは『観光亭記』(1680)に見られ、朱子学の解釈を踏まえて使用していることが確認された。次に確認されている用例は、京都に計画された学校に「観光院」(1782)と付けられたものである。名称に使おうとしたことは、「観国之光 利用賓于王」の句に注目していたからと考えられる。
・その他の「観光」の用例の中で、頼山陽の詩の「観光足識帝王尊」(1797)、立原万の『観光紀節』(1824)、秋月胤永の『観光集』(1860)及び詩の中の「観光適及薩摩州」(1860)等は実際に地域(国)にまなざしを向けたもので、遅くとも18世紀後半にはそのような観察行為に「観光」が用いられている。福沢諭吉の『西洋事情』(1866)では、国は海外に及んでいる。
・小宮山楓軒の『観光詞翰』(1819)、高杉晋作の『観光録』(1863)、秋月胤永の『観光帖』跋文(1869)などは、優れた人物の詩文、書画、また人物そのものを「国之光」として捉えていると考えられ、時代と易学の進展とともに「国之光」についての解釈が進んだものと考えられる。
・以上のほかに、易経によると推察されるが内容が確認できない「観光」の用例がいくつかあり、また、囲碁の世界にあてはめて使用している『国技観光』のような例も確認された。
・「観光」の語の由来や意味について説明している用例がほとんどないということは、識者の間ではそれが易経によるものと理解していて、あえて説明する必要がなかったためと考えられる。その基本的な解釈は、「観見国之盛徳光輝也・・・」という『程伝』(朱子学)による解釈である。現在使われている「観光」の語源として「観国之光 利用賓于王」の解釈・意味を紹介する場合は、『程伝』にある解釈を紹介するのが適切である。

おわりに
 紙幅の制約により要点を絞って論じているので、より詳しい内容の論文を別途公表する予定である。
 日本観光研究学会による『観光学全集第1巻 観光学の基礎』に記されている基本的な誤りを外部から指摘されたならば、恥ずかしい思いをするのは学会員である。それを正す意味で、また、これまでの根拠のない説を正す意味で、学会員の一人として役割を果たせたと思う。なお、「明治時代以降」の記述についても多くの問題があるので正してゆく必要がある。

【参考・引用文献】
(1) 上田卓爾(2005):観光学における「観光」の歴史的用例について-「観光丸」から「観光」を見直す-,第11回観光に関する学術研究論文入選論文集,(財)アジア太平洋観光交流センター,pp.32-48
(2) 溝尾良隆(2009):観光の語源と意味, 観光学全集第1巻 観光学の基礎,原書房,pp.19-22
(3) 沢木泰昭(2000.2001):『観光丸』蒸気船から宇宙船へ 1~3,8,観光文化No.140~142,147pp.22-27,pp.18-23,pp.20-25,pp.18-23
(4) 今井宇三郎(1987):新釈漢文大系23易経上,明治書院,pp.60-77
(5) 井上萬壽蔵(1957):観光教室、朝日新聞社,pp.63-68
(6) 大正新脩大蔵経刊行会[編](1960-1990):大正新脩大蔵経、大蔵出版(大蔵経テキストデータベース研究会:大正新脩大蔵経テキストデータベース)
(7) 中村幸彦(1979):大田南畝著『七観』等,浜田義一郎[編](1979):天明文学[所収],東京堂出版,pp.155-167
(8) 秋月胤永[著],秋月胤継[編](1913):韋軒遺稿,秋月胤継[出版]
(9) 萩博物館[編](2006):晋作と龍馬,萩博物館,p.28

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