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2009年5月19日 (火)

「観光」の語源に関連する記述に見られる問題点

※「観光」という言葉 5 ~観光丸にこだわることの誤り~ を書き換えました。
見ていたら長い記事が増えてしまいました。徐々に整理してゆきたいと思います。

2012年7月17日修正

「観光」の語源に関連する記述(文献、報告種類、講演録等)に見られる問題点にはつぎのようなものがあります。

誤:「観光」という言葉は、易経の「観国之光」から日本でつくられた言葉である

※これは明らかな間違いです。中国で「観光」という言葉が生まれ、日本に入ってきています。

誤:わが国で最初に「観光」という言葉が使われたのは「観光丸」である

※これは明らかな間違いです。
また、「観光」と言う言葉の歴史において、「観光丸」は用例の一つにすぎず、特別な意味を持つものではありません。意図を示さずに観光丸にこだわった記述をすることには問題があります。

誤:観光丸と名付けたのは永井玄蕃頭である

※永井玄蕃頭が命名したとする史料はみつかっていません。命名に関する史料から見ても永井玄蕃頭が命名したとは考えられません。

誤:「観国之光」は「観」には「しめす」の意味がある
誤:観光丸の「観光」は「光をしめす」、「国威発揚」の意味で用いられた

※この説には根拠がありません。
「観国之光」の「観」を「しめす」とする解釈は、近代以降日本で作られたもので、特に昭和5年に国際観光局が設置された際の説明から拡がったものと考えられます。江戸幕府は朱子学を奨励し、寛政異学の禁(1790)で朱子学を正学としています。幕府の軍艦ですから、観光は、当然、朱子学の解釈によると考えるのが妥当です。朱子の説明では、「観国之光」の「観」は、「しめす」ではなく「みる」です。
軍艦だから「光をしめす」、「国威発揚」という意味で使った、というのは、あまりにも単純な見方です。それなら、咸臨丸の「咸臨」はどういう意味か、ということになります。「国威発揚」とはかけ離れた名前です。「光をしめす」とする理由として、「観兵式」や「観艦式」をあげる人がいますが。これは見識がないとしかいいようがありません。観艦式の最初は観兵式の中で行われているので観兵式に絞って話します。「陸軍礼式」を見るまでもないとは思いますが、「軍隊を集合し整飾して観閲に供する式」を観兵式といいいます。これは、天皇や皇族などが観閲するわけで、天皇等に対して「しめす」などとはいいません。そもそも「光をしめす」という言い方が、江戸時代以前に自然に使われる表現だったかどうか。江戸時代以前の文献を多数読んでいますが、これまで「光をしめす」という表現は見たことがありません。

  ※「観兵」=「兵をしめす」という言い方はあります。『春秋左氏伝』に出ています。

誤:「観光」は、秦鼎の校本『春秋左氏伝』の注釈から広まったのではないか

※この説には根拠がありません。

誤:「国の光を観る」は、「為政者が民の暮らしを観る」という意味

※これは「位」の解釈を間違えています。「観国之光」は四番目の位で、これは為政者(王)の位ではありません。

<<「観国之光」の「観」は「しめす」ではない(朱子ほかの説明による)>>

 ところで、「国の光をしめ(観)す」という説明がありますが、「観国之光」の「観」の読みは「しめす」ではありません。「観」には、「みる」と「しめす」の意味がありますが、「観国之光」の「観」の意味は「みる」であるということは、朱子を始めとして中国の学者の説明にもあります。
 朱子によると「上より下に示すを観(去声)と曰ひ、下より上を観るを観(平声)と曰ふ。故に卦名の観は去声にして、六爻の観はみな平声なり」(『語類』)とされており、「観国之光」の「観」は「観る」となっています。

※去声、平声は発音の違いを表しています。学者によって異なる部分もありますが、「六爻の観」は「観る」であるということは共通しています。「観(しめ)す」は「上から下」へ示すものであるので、「国の光を観す(示す)」という言い方はどこか不遜な印象を受けます。
「上から下」へ観すのは「政」であり、その徳業の結果としての「光」を観る、というのが「観国之光」ということです。
単純に考えても「観(み)る」と「しめす」では、主体が異なります。掛詞ではないのですから、一つの文に二つの主体はおかしい。また、その場合六爻のそれぞれの位はどのように捉えるのでしょうか。そして、「観国之光」の「観」が示すの意なら、他の爻辞の「観」も示すとなるのでしょうか。

<<『易経』の「観光」と、現在使われている「観光」は区別しなければいけない>>

『易経』の意味の「観光」と、現在使われている「観光」は区別して捉える必要があります。現在使っている「観光」は、使われているうちに意味が変わっているからです。

「観」を「示す」とするのは、国際観光局を設置するまでの過程で、日本で付加されたものです。現在使われている「観光」が、易経の「観国之光」とは異なる意味であることを考えれば、易経から切り離された「観光」に、「光を示す」という意味が付加された、といえるでしょう。

『易経』に由来する「観光」は中国で使われてきましたが、現在日本で使われている意味での「観光」はほとんど使われず、「旅游(遊)」が使われています。ここで、「ほとんど」と書いたのは、全く使われていないというわけではない、ということです。よく調べないとわかりませんが、日本人観光客を意識して使うようになったのかもしれません。中国の「旅游」は tourism の意味ですが、「観光」は sightseeing的な意味で使われているように感じます。何人かの中国からの留学生に聞いた話でも、そのようなことでしたが、数人の話を鵜呑みにするのは、現時点では避けておきたいと思います。

<<間違った説明の原因:国際観光局の説明>>

「観光」の語源の誤った説明をする人が観光の分野の専門家・学者の間に増えた原因のおおもとは、おそらく、昭和5年に鉄道省に設置された国際観光局の命名についての説明にあると思われます。国際観光局の説明は次のようなものです。

「観光の字源は、周代に於ける易経の〝観国之光利用賓于王〟から出てゐる。なほ同じ易経に〝観国之光尚賓也〟と見えてゐるが、この場合の観は観兵式が兵威をしめすと解せられるやうに、輝かしい国の光をしめし賓客を優遇する意味と取られ、これは大帝国の建設者たる天分を誇つてゐた古代ローマ人シセロの云ふ〝ホスピタリタス(歓待)は国家のほまれなり〟と共に東西相通じて観光が大国民の襟度と衿恃をしめすものであることを教へてゐる。異国の人々を誘致し、こヽろよく優遇することは、比類なき歴史、伝統、風光、文化を有するすぐれたる国にしてはじめてよくこれをなし得るのであつて、いはゆる長者の落付は自らの国力国情に対する確信と、その確信から生ずる気持ちの余裕から生まれるのである。駸々乎として進んで止まざるわが国柄であるからこそ、観光国日本として、その姿を惜みなく外国に宣揚し、七つの海から国の光を慕つて寄り集ふ外人に歓待の手をさし延ぶべきである、と云ふ大抱負が、すなはちこの観光局の命名となったのである。」

また、これに関連して、井上萬壽蔵の説明が昭和15年発行の『観光読本』に載っています。

「さらにこの文字の由来をさぐればもともと観光といふ文字は支那の易経といふ古い書物のなかに「観国之光」とある文句から取つたのでその意味は一国の風光文物を観賞するといふことであるから、国際的な意味から起こつたことはいふまでもない。なほ、「観」の字には観兵式の熟語におけるやうに、「しめす」といふ訓み方もあるので、一方においては観光とは国の光を他国にしめすことであるといふ解釈もなり立つのである。しかし「みる」と「しめす」とは同一の事がらの二つの現れであつて、ツウリストからいへば「みる」であり、国からいへば「しめす」といふことになるのでけつして矛盾ではない。」

この説明は、戦後に発行された井上の著書にも掲載されていますので、既に紹介した誤った説明の例の説明文と比較して、おそらくこれらがもとになっているものと推察されます。

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2009年5月18日 (月)

「観光」という言葉 こぼれ話

<<観光丸、咸臨丸、朝陽丸>>

●観光丸:
 安政二年(1855)八月にオランダ国王から幕府に贈られたスンビン号という蒸気船軍艦で、翌年四月に「観光丸」と名付けなれた。なぜそう名付けられたか、という記録は見あたらない。献納されたスンビン号は長崎で蒸気船の伝習に用いられた。
 スンビン号(観光丸)は、幕府にとって重要なものであったが、中古船である。
 なお。スンビン号は、嘉永七(安政元)年(1854)に、オランダから幕府に派遣されて、蒸気船の伝習等に用いられていた。

●咸臨丸と朝陽丸:
 幕府はペリー来航後程なくオランダに軍艦2隻を発注した。安政四年(1857)八月にそのうちの一隻、ヤッパン(日本)号が入津する。これが後に咸臨丸と名付けられるが、史料を欠くため、いつ名付けられたかは不明である。そして、翌安政五年(1858)五月に、エド(江戸)号が長崎に入津する。これが後に朝陽丸と名付けられるが、咸臨丸と同様史料を欠くため、いつ名付けられたかは不明である。
 つまり、咸臨丸と朝陽丸は、新造の姉妹艦である。

余談ですが、朝陽丸と同じ年の七月に、江戸で、イギリスよりエンピロル号が幕府に献上されています。これは、蟠竜丸と名付けられています。

※観光関係の専門家が書いたものや話を記録したものを見ると、観光丸と咸臨丸を姉妹船としたり、幕府がオランダに発注した2隻の軍艦を観光丸と咸臨丸としたり、というような謝った記述が時折見られます。史実を確認せず(調べず)に書いているということに問題があるということなのですが、根拠が定かではない誰かが書いたものからとっていたり、勝手な思い込みで書いていたり、というようなところに問題があるように思います。

※観光丸は練習船として使われていました。江戸への航海もありますが、その間は海の上です。観光丸という名前を大きく掲げていたわけではありませんから、見たからといって、観光丸という名前がわかるわけではありません。
現代のようにマスコミが発達しているわけではありませんから、観光丸の名前を知っていたのは、せいぜい関係者やそれに近い周辺の者に限られるでしょうし、軍艦の名前ですから、よほど知的好奇心が旺盛でなければ、その意味を問うことはないと思います。
「観光」という言葉の歴史をひもとくときに、観光丸にこだわり大きな意味を持たせようとすることには無理があると思います。

●ポーハタン号(アメリカ)の随行船:
 結果としては、咸臨丸が随行船として太平洋を横断、往復したが、最初から咸臨丸に決まっていたわけではない。
 当初、勝海舟らは、朝陽丸が適当と選定して準備を進めていた。(この時点では、咸臨丸は品川の海に繋留されていなかったため、候補に入っていなかった。)
 ところがしばらくして、軍艦奉行井上信州が「朝陽丸は船形小にして荷物乗組充分ならず、観光丸はやや大形なり。これを以て今度の航海にあつべき」と、ただ大きいからということだけで観光丸に変えてしまった。
 しかしその後に、アメリカ側から、観光丸は旧式の船なので危険であるとの進言があり、再び変更になる。が、このとき朝陽丸は江戸にいなかったため、江戸にいた咸臨丸に役目がまわってきた。

※咸臨丸が太平洋を渡ったのは、偶然、歴史のいたずらといえるかもしれません。観光丸が選ばれなかったのは、旧式で危険ということなので、必然といえるでしょう。
 これも観光関係の方で、「観光丸が太平洋を渡っていたかもしれない」というように書かれている方がたまにいますが、遭難、沈没の危険が高かったわけですから、あまりりこうな推察とはいえないでしょう。

以上については、主に勝海舟の『海軍歴史』を参考にしています。
船の名前は、後に「丸」がとれます。海軍歴史の中では、観光艦、咸臨艦、朝陽艦と書かれています。

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2009年5月 8日 (金)

「観光」という言葉 こぼれ話 3

<<勇み足>>

 「観光」という言葉の歴史上の用例について調べていて、勝手な思い込みから性急に判断し、一時誤ったとらえ方をしてしまったことがあります。

 一つは「観光丸」について調べていたときで、‘安政三年にスンビン号に「観光丸」と名付けられた’と書いてあるけれど、その元となる史料が示されていないため、それを探していた時のことです。

 勝海舟の『海軍歴史』や長崎海軍伝習所について書かれた本をみたけれど、それに相当する資料が見つからない。その他のその時代について書かれた本をいくつか見ても見つからない。そして永井玄蕃頭尚志について書かれた本を見る段になりました。

 城殿輝雄の『伝記永井玄蕃頭尚志』を開いていくうちに「伝習艦スムービング号は、永井の命名により観光丸と名を改め、・・・」という箇所が目に入りました。

 多少のひっかかるものがありましたが、この種の本を書く人はよく調べて書いていることが多いので、それをとりあえず信じて、該当する資料が掲載されていないか探しました。

 見つからないので、当初探し方が悪く見落としているかもしれないと思っていたのですが、探し直してみて、結論として「そのような資料はない」という結論に至りました。
 どうやら永井の命名とした根拠としたものは、「永井尚志手記」にある「蘭王蒸気軍艦を贈り、海軍伝習の用を充す・之を名づけて観光丸と曰ふ。」を、誤ってそのように解釈したのではないかと思われます。
 他の史料も調べていたので、「「観光」の語源について」に掲載したような資料もほどなく見つかり、誤りを確信した次第です。ちょっとの間ですが、誤った認識をしてしまっていたわけです。

 私にとっては、たまたま調べている核心部分であり、一時とはいえ大きな誤りをしていたわけです。
 しかしながら、城殿氏の文献については、たまたま一箇所に誤りがあったというだけであり、その文献全体の評価・価値については、大きな問題ではありません。

 もう一つの勇み足は、観光縮緬、観光繻子についてのことです。
 誤りは、佐田介石という人がつくった舶来品排斥・国産品(代用品)奨励を目的とした結社である「観光社」がそれらを売り出した、としたことです。
 これも一時のことですが勇み足でした。

 観光縮緬、観光繻子が桐生で作られたということまで調べてわかったところに、地元の要請で、高崎、桐生、足利に観光分社を開いた、ということを重ねてしまったことによる誤りでした。
 観光社から出された『栽培経済問答新誌』に、観光燈、観光油、観光傘、観光団子などが出ていたので、他に同様に観光○○という商品を出しているところがないことから、勝手に桐生の観光分社でつくられ観光社とともに販売した、というように思い込んでしまったわけです。
 なお、正確には、観光燈ほかを販売したのは、結社の加盟者ですが、結社の趣意にそったものであり、観光社の販売としても差し支えないと考えています。

 観光分社については『等象介石略伝』に出ていて、これは、介石の死後ほどなく出版されているので、間違いはないだろうと推察したわけですが、他に観光分社について記した史料が見あたらないので、今は、まだ調査中ということで、疑問符をつけています。

 また、観光縮緬、観光繻子がつくられたのは、観光分社が開かれたとされる年よりも前のようなので、誤りであることは確認されましたが、まだ、いつ作られたかはまだ正確には確認できていません。

 一時ではあるけれども、思い込みで誤った認識をしてしまいました。
 あとから書かれたもについては、史料(原典)がきちんと示されているもの以外は安易に取り上げてはいけませんね。

 観光繻子について、『大辞林 第二版』に、「たて糸を絹、よこ糸を綿で織った繻子。明治の初め頃、栃木県相生産のものを東京、浅草の観光社で販売したのでこの名がある。」と記されていますが、これは間違いです。
 辞書、辞典類にも誤った記述があることを認識しておく必要があります。

 なお、観光縮緬、観光繻子、また佐田介石の観光社の命名について、これが「観国之光」から命名されたものかどうかは、今のところわかりません。
 観光縮緬、観光繻子については、明治の中期頃から有名だったらしいことはわかっています。

※この記事は、2009.8.8 に書いたものですが、読みやすさを考慮して、記事の並びを調整するため日付を変えて掲載します。また、一部加筆修正しています。

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